2008/10/05

シルヴィ・ギエム+土方 巽の友枝喜久夫ブレンド / moderndance

photo by Takeshi Kainuma

一昨日、日本橋劇場までカミさんと一緒に「第29回選抜新人舞踊公演」を見に行ってきました。
もちろん、僕が1990年に作った楽曲「the end park」を伊東由里というダンサーがどのような解釈をし、また振り付けをするのか、これを見るのが目的でありました。
でなければ、僕は振付家ではありませんので、わざわざ遠方まで“新人の舞台”を見に行かない。

その後、やや僕の内側でダンス熱が再燃し、再燃したところで、また「踊ろう」とは思いませんが、しばし考える事あり、インターネット上で記憶の再確認作業をしていたら、なんだかダンスについての啓蒙精神がふっと目覚め、とりあえず乱文覚悟で、この熱が覚めやらぬうちにすこし書いておきます。

単刀直入に結論だけ述べれば、21世紀のダンスとは、シルヴィ・ギエム(Sylvie Guillem, 1965年2月25日 - )と土方巽(1928年3月9日 - 1986年1月21日)の一見大きく異なる2つのスタイルの高次ブレンド、それを能役者・友枝喜久夫 ブレンドと呼ぶことが出来ますが、そこら辺にしか無いように、若手の創作モダンダンスに久方ぶりに触れ、そう観じたのでした。

シルヴィ・ギエム、そして土方 巽は「天才」であり、まして友枝喜久夫翁に至っては「あの世とこの世を往来しながら」舞台上に見事な異次元空間を拓かせる才を掴み取った稀有の踊り手でしたから、僕がやんちゃに21世紀のダンサーの目指すべき場所は「シルヴィ・ギエム+土方巽の友枝ブレンド」なんて、「おいおい、中尾彬かっ!」って話ですよね。

まずシルヴィ・ギエムのダンスビデオを ここ で見てください。
そして、伝説の舞踏家・土方巽のビデオは ここ で見ることが出来ます。

たとえば、コンテンポラリーダンス、つまりモダンダンスや舞踏は難解であるという声をよく聞きますが、これは、観る側が「言葉によって意味を構築、解釈しようとする」からであります。
そもそもダンス、身体表現とは、言葉にならぬ「なにか」を身振りや手振りを交えて伝達しようとする行為、またはその延長にあるものに過ぎません。

書き文字を持とうとしなかった民族の踊りが非常にシンプルなもので、時として文明にやられた僕らの眼から見て、いわゆる「鑑賞」には堪えませんが、人間が書き言葉というもの手にし、編み出した後の文明、そこから生まれたダンス表現とは、「踊りたい」という僕らが本来的に有している原始本能はとうぜん変質を被りますし、またそのパッションは微妙に個別化され、意味の網目(一種の文明病)はより複雑なものに成ってゆきます。ですから、実際、ある舞踊作品を「理解」していると自覚(錯覚)しているのはその作品の振付家、もしくは演出家のみで、別に現代の舞踊、舞踏というものを、僕らが「理で解する」必要はまったく無いわけです。

ダンス表現が「難解」なのではなく、たぶん僕らが太古の時代に有していた共通の「条件」、広義な意味での共有しうる「法・根幹」というものを喪失し、人類が、そのほとんどが集合意識から個人意識へとシフトし、「孤独」という共有不能なそれぞれの個人的感情を、あの星空の元へ今なお昇華しえないがゆえの「離脱感」、それが一般の方々が感じられる「難解」という感想の因なのではないでしょうか。

伊東由里さんの「the end park」、彼女が付けたタイトルは「そして骸になりて」という、やや観念的なタイトルでしたが、人間が抱えてしまった「意味」の複雑な網目の裂け目からふっと垣間見えるあの「ヒカリ」にそっと手を伸ばそうとする、、、、人間的苦悩の限界を知る、その罠を本能的に知悉する者の身体表現でした。


p.s.苦悩と戯れる事を選び続けているある種誠実でもっとも優秀なダンサー+振付家ウィリアム・フォーサイスとピナ・バウシュのビデオは、こちら と こちら。よろしければ参考までにご覧下され。

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