2008/10/20
無防備な心の眺望 / Itasankata by Fukiko Goukon
先日、「第1回国際口琴フェスティバルin東京」出演のため、北海道釧路市阿寒湖アイヌコタンからお母様とお二人で上京していた郷右近富貴子さんのレコーデイングを、ここ裏高尾の「high tail studio」にて、お二人のタイトなスケジュールを調整していただき、ややチカラずくで敢行させてもらいました。
郷右近富貴子さんの唄声は、一度、阿寒湖にお邪魔した際に聴いており、もし機会あればレコーデイングしてみたいなと、うっすら考えていたわけです。
僕にとってレコーデイング、誰かをプロデユースするとは、写真の仕事、「撮影行為」に近いものがあります。決して片手間では出来ないことですし、一切、手は抜きませんが、一人でモノを作っているほうが気楽だなあと感じてしまうこと多々…ですね。アイヌの唄い手は、僕ら日本人とは違った感覚、自らの民族の唄について強烈な倫理感を内に秘めているので、まず、この心境について、十分に理解しておく必要があります。いや、理解しようとする息吹のようなものを持とうと絶えず心がけなかれば、そう安々とレコーデイングはさせてもらえないのです。
たぶん、僕が床絵美さんや、そのお母様である床みどりさん、郷右近富貴子さんの唄声を録音する事について、違和感を覚える方がいるかもしれない。「アイヌかぶれ」という、安易な了解で済ませてしまう方も……。僕がアイヌの唄にかかわっている理由を、単なる政治的、または「社会的・歴史的」意識の延長と想像する方もいるかもしれません。
かつて、わが国の政府によって「土人」と認定されたアイヌ民族が、じつは日本という島国の「先住民」であった、とか、こういった社会的・政治的議論、史実について、僕は(幾つかの理由により)まったく距離を置いています。また、このような「視点」につきものの「運動」に参加するような事も、まずないでしょう。これは僕が社会的な問題、または政治的な問題について無感覚、軽視しているということではなく、政治的または人種的な問題といって良いかも知れませんが、深くかかわりすぎれば、実際、モノがみえなくなる、「人間」が見えなくなるという、僕個人の体験的認識からよるものです。
(ああ、詰まらない、意味の無いことを書いてしまった。)
郷右近 富貴子:ボーカル Fukiko Goukon : vocal
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ここに唄が在る。
ここに、無防備な意識が、心の光景が在る。
唄い手である彼女は、まるでその眼前に距離を喪失した暗闇が無限にひろがる断崖にて唄っているようでもある。
アニメ映画『ゲド戦記』の主題歌「テルーの唄」を唄った手嶌葵より非情な場所に、どうやら彼女は立っている。
心を支えるものを一切失った状態で、「唄だけ」が、「唄う事だけ」がその存在を支えているかのようである。
現代曲、現代の歌というものは、そのほとんどが「演技」でありましょう。
たとえば、絶品の歌唱力・表現力をもっていた美空ひばりの歌は演技であり、その楽曲はいわば一級の「工芸品」にすぎません。未知の領域を予感させるものなど一切含まれておりません。つまり「芸術」の領域まで及んでいなかったからです。
もちろん、歌とは、現代においては娯楽、慰めや感情移入のためのツールのひとつであり、そこに「芸術」云々を語るのはやや大袈裟すぎますが、アイヌの唄は、僕に限りなく「唄の原点」もしくは「唄の始原性」というものを想起させてくれます。そしてこの想起によって、僕がなにを得、なにを観たのかと言えば、この文明が矢継ぎ早に僕たちの五感を誘惑し、方向付けをし、見えなくさせていった「なにか」、数多の気晴らしの渦の中で見失ってしまった「someting great」です。そしてこれこそがアートの「真髄」であり、存在の謎に迫るための最後のチケットである、と。
かつてのアイヌの生活様式はうつくしい。そして、今なおアイヌの唄はすばらしい。それで日本の伝統芸能、日本の美学もすばらしい。そういうことです。
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