2009/05/01

雅楽山禮図-1 / the another mountain


*雅楽山禮図(がらくさんらいず)

山というのは何だろう?
たぶん、日本で一番多く撮影された山といえば「富士山」なんでしょう。
富士山、うつくしいですね。
「ああ、美しい」
手元に、もしカメラなどあれば、皆、きっと、パチリと一枚撮影してしまいます。
「なぜ、撮影するの?」と訊ねれば、「美しいから」と答える。
でも、ぼくのように、長年撮影を続けていると、「美しい」だけでは、「撮影」しようという気にはなりません(たぶん)。
それは、「モノのうつくしさ」とは、ほんらい撮影できない、というか、・・・。
「写真」になる、「写真」として成立(?)するためには、撮影者が被写体と共振、これを「ともぶれ」とも言いますが、ひどく共振する必要があります。
「美しい」という撮影者の感情を、技術によって、「美しい写真」として仕上げることは条件さえ整えばさほど難しいことではありませんが、「美」とはそんな単純なものではなく、「美」とは、瞬間瞬間に生まれ変わる、けっして固定化しえない有機的な「あるなにものか」です。
ちょっと難しい言い方になりますが、「現物(被写体)」としての富士山は確かにうつくしい、のですが、「うつくしい富士の写真」などは無い、この世には存在しないとぼくは言いたい。
ちょっと理屈っぽくなりますが、「うつくしい山」だけが在る、「うつくしい命」だけが在る。
醜い山、醜い命などとというものは、実際、存在しないのですね。
つまり、「生命の雅楽(がらく)」だけが在る。あとは一切が「空(くう)」、幻のダンス、種々のショータイムです。
やや仏教っぽい言い草ですが、今まで後生大事にして来たものが、大事だと思い込んで来た、また思い込まされて来た、教育されてきた事々が、ぽろぽろと(自分と言う意識の総体から)零れてゆくことの恐怖、不安感、・・・写真を撮るということは、世界を撮るということは、実はそういうことなんだとぼくは思っています、本当に、突き詰めてゆくなら・・・。

もうー、たまんないね。


0 件のコメント: