2009/05/03

ウジェーヌ・アジェへの手紙-1 / Lettre à Atget (1)



ウジェーヌ・アジェ(Eugène Atget)とは、20世紀初頭のフランスの(都市)風景写真家です。
そしてもう一人、エドワード・カーティス(Edward S. Curtis)とは、19世紀末アメリカの肖像写真家です。
に独論しますが、まだ200年足らずの「世界の写真史」においてもっとも偉大なフォトグラファーとはこの2人ではないかと、ぼくは密かに確信しています。
2つのピーク点、風景写真ではアジェ、肖像写真ではカーティス。まだ誰もこの2人を超える「仕事」を成していない、写真家は登場していないように思います。
では、彼等の仕事を超える必要があるのかと問われれば、たぶんエドワード・カーティスの仕事、ポートレイトを越える事はほぼ不可能ですが、アジェの仕事に関して言えば、これは詩人アルチュール・ランボウの手紙の中の一節「・・・彼が数多の前代未聞の物事に跳ね飛ばされて、くたばろうとも、他の恐ろしい労働者達が、代わりにやって来るだろう。彼等は、前者が倒れた処から又仕事を始めるだろう」(小林秀雄訳)、可能ではないかと・・・。
もちろん写真に興味のない方々にとっては、馬の目に写真のニンジンですが、幸か不幸か、ぼくはフォトグラファーの道を選び、ずっと歩いて来ていますので、自身の仕事を絶えず計量し、判断をし、その時々に決着をつける必要があります。さらに、先人先達の仕事があったからこそ、こうして此処で撮影することが出来、彼らパイオニアの仕事を昇華し、これに向け挑戦してゆくことが、後続の務め、のちに続く者たちの役割ではないかと思うのです。

今回アップした2点の写真は、昨年末から今年の4月あたりまでに撮影された新しい写真シリーズ『ウジェーヌ・アジェへの手紙 -Lettre à Atget- 』です。


アジェの写真、彼の仕事の凄み、功績とは、パリの古い町並みを撮影したことにあるのではなく、彼の、その特異な<立ち居地>にあります。これを「現実と非在のあわい」と呼んでも構いませんが、そういった場所にすうっと身を置き、延々と撮影を敢行した写真家は今のところアジェ以外には見当たりません。つまり彼の仕事、写真の凄みとは、その不可思議な<幽玄性>にあります。これについては、ドイツの文芸批評家ヴァルター・ベンヤミンは舌足らずにも<アウラ>と名づけましたが、このアジェの立ち居地は、『新たなる凝視』以降の日本の写真家・中平卓馬のそれとは全く似て非なるものです。

エドワード・カーティスの功績とは、北米インデイアンばかりを大量に撮影したことあるのではなく、その肖像写真から匂い立つ「人間の誇り、気高さ」にあります。これはナダールの肖像写真と比較すると明らかに理解できることですが、今だかつて、カーティスほど、<人間の魂の可能性の中心>を、顕在化したフォトグラファーはいません。もちろん、被写体の力(もしくは存在感)による処は大きかったですが、「人間存在、その精神の真摯な姿」が、たったひとりの人間、写真家によってひたすら撮り続けられたという事実は奇跡的な事ではないでしようか。カーティスの写真を見、その眼差しの有り様に触れ、鑑賞者は、自身の「可能性の中心」と対面する瞬間、想起する場を得ることでしょう。その点、ナダールの肖像写真は、西洋中心主義、貴族趣味的であり、ポーズ、虚飾です。いわば西洋絵画における肖像画の延長でしかない。
さらに、1960年以降のダイアン・アーバスのフリークス写真、肖像写真家の仕事は、殊更撮影しなくとも「現実」を見渡せばいくらでも散見している人間の姿形であり、ただただ負の面、安上がりな覗き見趣味的情動を誘発する類の仕事ですから、ぼくはさほど評価する気にはなれません。なぜなら、負への共感とは、自己憐憫であり、自身への誤摩化し、時代への茶化しであり、嘲笑、ぼくたちがすでにフリークス化しているという事実との対峙を曖昧にしてしまうからなのです。love & peaceと叫ばれた「時代」が生んだ、甘ったれた仕事のように見えます。(ただし、アーバスの死後発表された『untitled』は、たいへん優れた、驚異的な“視”です。)

かなり話が脱線しまくりましたが、アジェの仕事、写真とは、写真を続ける者が決して避けては通れぬ手強い関門ではないかと、ぼくは思っています。




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