2009/05/10

美 / the beauty


 photo by Takeshi Kainuma 

 小林秀雄 『私の人生観』(角川文庫)より

なぜ、美は、現実の思想であってはならないのか。
だが、通念というものは、あらゆる疑問を封ずる力を持つものです。
美という言葉が、何かしら古風な子供らしい響きを伝えるのは、誰のした仕業でもない。空想とか夢想とかいう考えを伴わずに、美という言葉を発言するのは容易ではない。誰のせいでもない、通念の力である。考えの落ちてゆく往くところはひとつです。夢もまた人生には必要ではないか、と。しかし、夢とは、覚めてみたればこそ夢なのではないか。日常の通念の世界でわれに還るからこそ、あれは美しい夢だったというのではないか。そして、通念とは万人の夢ではないでしょうか。
美しい自然を眺めてまるで絵のようだと言う、美しい絵を見てまるで本当のようだと言います。これは、私たちのごく普通な感嘆の言葉であるが、私たちは、われ知らずたいへん大事なことを言っているようだ。要するに、美は夢ではないと言っているのであります。

この文章は、小林秀雄が昭和23年秋「新大阪新聞」主催の講演会で話したものに後日手を加えたものだそうですが、ぼくが得て勝手に抜粋し、そのまま引用してみても、「なんのことやら?」でしょうから、下記に、ちょいと現代語訳(?)というか、ぼくの独断による自由訳、変換引用文を掲載させていただきます。(すいません、小林翁。)

たとえば、クロード・モネの晩年の仕事に「睡蓮の連作」というものがありますが、なぜ彼は、晩年、あれほどまで執拗に睡蓮ばかりを描き続けたのか?
こういった疑問こそが、絵が一つの「精神」として皆さんに語りかけて来る糸口なのであり、絵はそういう糸口を通じて、皆さんに、あなた方はまだ一ぺんも睡蓮を、通念的に見てきただけで、「自然の本体」というものを、ほんとうには見たことないのだと断言しているのです。
私は美学という一種の夢、屁理屈を語っているのではない。皆さんの目の前にある絵、「作品」は、実際には皆さんの知覚の根本的革命を迫っているのです。
しかし通念の力によって、知覚の拡大など不可能である、眼には見えるものしか見えはせぬ、知覚の深化拡大など思いもよらぬ、と人は言うかもしれない。だが、議論は止めよう。実際には、この不可能事を可能にしたとしか考えられぬ人間がいるのです。それが優れた芸術家たちです。彼らの仕事、作品とは、通念という夢から覚めたひとつの「現実」なのです。
そして芸術家とは、すべての人間に備わる、あの通念の果て、私たちひとりひとりに内在してある「美」の領地に住む「もうひとりの私自身」の姿でもあるのです。

小林秀雄の著作は、20代の頃、よく読んだものです。最近、当ブログにランボウの手紙を紹介しようと、久しぶりに、約20年ぶりぐらいにふらっと覗いてみたら、なんだかとっても素敵な文章ばかりが散りばめてあったのでついつい紹介しちゃいました。

小林秀雄、読んでみてください。
写真論として読むこともできるし、ちょっと大袈裟ですが、「生きる」という事の王道が見えてくると思います。

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