8年間のニューヨークでの暮らしを後にして、ここ裏高尾の麓に引っ越してきて以来、この時分になると、とうぜん山は新緑するのだが、気分転換に、ぼくはよくカミさんと近所をテクテク散歩する。すると彼女はきまってぼくの隣でなんの前触れもなく「わあーっ!!ほら、山が笑っている」と叫ぶのである。その度に、ぼくは彼女の指差す方に眼をやり、「うむ・・・」などと曖昧な返事をするだけで、さらり済まそうとするが、彼女の方はといえば、こんな幸せな気分はない、というぐらい、それこそ「山の笑いに私は今から応えるのだ!」って、いつもそんな勢いなのだ。
ぼくは、どうも山の表情、新緑にたいして、まだ彼女のような「感応力」というか、つよい感心をもつことができずにいた。
もちろん、山の新緑は見事であり、たとえ手入れがまったくされていない植林杉山でさえたいへん雄大で美しいが、「山が笑っている」のか否かは定かでなく、ぼくの横で、全身でその山の笑いを味わっているカミさんの姿を見ている方がずっと面白い、などと感じていたのだ。
そして今春も、例年どおり、彼女は「ああー、山が笑っている」そして「ねえ?」と小躍りしながらぼくに相槌を求めてきた。しかしどうしたことか、ぼくの内部、視覚に異変が起きたのか、もしくは、カミさんの献身的なPRの成果なのか、今春は、ぼくにも、それこそ、ついに「山が笑っている」ように見えたのだ。直撃だった。
裏高尾生活6年目にして、ようやくぼくも彼女の「あじわい」というものが実感できるようになってきたわけ。(めでたしめでたし。)
写真を生業としているぼくは、当然職業柄、この「あじわい」を写真にせねばという命令形を自分に出してしまうが、実に、「笑い」にもいろいろ在り。
ぼくはこれまで「山の写真」などは真剣に撮ったことはありませんでしたけど、写真の「被写体」として山を撮ることに興味が無かっただけで、このカラダを山に入れ「佇む」のはかなり好きな方で、最近は離れてますが「山仕事」なんかも趣味でやってきました、地球温暖化対策の一環として……、嘘ですが、ぼくはどうも「海」より「山派」なんですね。
山がわらっている。
なぜわらうのか? このご時世に。
むずかしい言い方をすれば、「山」とは善悪の彼岸であり、つまりその「わらい」とは「彼岸」の「わらい」という事になりそうです。
「山」は、無数の「生命」の現場ですから、「山」とは生命の実相そのものであり、まさしく「ユートピア」なんですね。たとえば福岡正信さん流に言うならば、ぼくたち人間という生き物は「分別の木の実」を食することにより、この「ユートピア」から追放、というか、自ら出て行く事を選んだのかもしれません。
それで高尾山って所はけっこう自殺者がでるんですけど、ゆえ地元の人はあまり山の中に入ろうとはしませんが、「自殺者?いやあーねー」なんて言わないでくださいよ。病院内で薬漬けにされて死ぬのか、それとも、ナチュラル・ミステックのお膝元で息を引き取るのか? それは個人の選択でしょう。結果として、「自殺」してしまった者達にぼくたち人間が贈れる唯一のコトバは、ちょっと語弊があるかもしれないけれど、「かまへん、かまへん」じゃないかなと思ってます。
「なぜ自殺を選んだのか?」
そんな愚問を自殺者に投げかけてもしょうがない。自殺を選ぶには選ぶだけののっぴきならぬ理由がその個人の中にあったのだから。
自殺者が、うまく三途の河を渡って、この世を彷徨うことが無いように、その抑止の言霊として、ぼくは「かまへん、かまへん、アディオス!!」と言おう。まるでオリュウノオバのように。
死を忌み嫌う時代は疾うに過ぎた。なぜなら、山がわらっている。
(---ぼくもなんとか山のわらいを修得、生きたいものだ。)
♪There's a natural mystic blowing through the air;
If you listen carefully now you will hear.
If you listen carefully now you will hear.
Natural Mystic by Bob Marley