2009/05/20

モダン畑リビング / Blow

昨年の11月ごろ、近所に住んでおられるH夫妻から「土地、ただで借りられたんだけど、畑、一緒にやらない?」と誘われて、カミさんとぼくは「ぜひぜひ!」と。
のち、5~6年ほど放置されていた草ボーボーの、いや、篠竹と葛のツルのやりたい放題、他の植物をよせつけぬほど絡みついた、なんとなく投げやり、つまり種類のとぼしい植生のジャングル化した500坪ほどの空き地を、畑として、環境整備、開墾を、下倉夫妻も誘い、始めたのでした。
で、そういった作業最中に、視えて来た事、感じてしまった事々はたくさんあって、紐解けた事、「ああー」と、今だ言葉にならない諸々の知覚内容についてはまた次の機会に書くとして、我が家の食卓は、その畑で収穫したサンチェと小松菜、春菊、ルッコラばかり、いただき過ぎて、「ウップ!」って気分です。でも、ありがたやありがたや・・・。
それでぼくはひそか「この畑では虫一匹たりとも殺してはならぬ」という声が、「この畑には、種(または苗)以外の他所からのブツブツ(まあ化学肥料とか石灰とかその他諸々ね)は一切進入禁止!ぜ~んぶ此処の生命、イノチによってまかなうのだっ!」なんて、百姓のプロが聞いたら失笑されそうな感覚が、内部で破裂しちまったんもんだから、ぼくはスパイのようにその「倫理(唄)」に従うことにしている。なぜなら、別にノルマ、どこかに出荷する義務も責任も背負ってないわけだし、畑仕事とは、はっきり申し上げて、大人の「遊び」ですから。しかしながら「遊び」によってしか、途中経過、過程をおおいに楽しめない、なにやらニンゲンにとっての普遍的重大事を修得できはしない、学べないといいますか、もし「収穫」を目的にしてしまえば、その執着イメージが事を見失わせる、そう感じたからなのです。
もちろん、汗水流せば誰もがそこでの「収穫」を願い、「結果」によって満足感を得ようとします。でも、これなんでしょうかね? こういった情動は、本当にぼくたちをあの確たる「シアワセ」の王国に導いてくれるんですかね。なにかを観察したり、感じているそのときの方が、いわゆるオトナな満足感なんてものはないけれど、ゾクゾクしちゃうもんじゃーないのかな。「ああ、天道虫ってみょうな名前をつけられた、食べたら不味そうな生命が葉っぱの上でじ~っとしているさあ」とか、「おお、ようやく出てきた敬三さんからいただいた白花豆の若葉に恐竜のような風情をもった小さな虫がびっしり付いてるじゃーあ~りませんか」なんて、自分が蒔いてしまった「種」だからこそ、その植物の成長に最後まで、できうるかぎり厳かにかかわろうとするものだし、見守って、「かわいいやつ」だなんて言ったりして、そんな気分の時だよね、あの「イノチ」が視えて来る瞬間ってさ。単なる「観察」でしかなかったものが、いきなり自身がニンゲンであることを超え、「一体」(一即多)となってしまう瞬間が・・・。



またまた動画をアップしちゃいます。
楽曲は、昨年、床絵美さんとのユニット、リウカカント(Riwkakant)の2ndの「ダブルファンタジー」を制作中に、ちょいと気分転換に仕上げた「Blow」という作品(一部)です。
唄声は、タイのモスクから響いてきたもの。

2 件のコメント:

はっちい さんのコメント...

畑やって「確たる幸せの王国」に行けるか考えるってのも笑えるね。最後にひとつになるのは共感するよ。でも僕は観察してるだけじゃあんまりそうならん。食ったり、撮ったり、描いたりしないとだめみたい。
 理解して好きになるってのはあるけど。

「音楽には本来意味はなくて、魂の果てまで吹きあがるためだけのものだった。」
って文章を今書いたんだけど、武史の聞いて、これまた現代的に吹きあがってるなって思ったよ。レクイエム好きだな。レクイエムに聞こえないところがいいよ。

アイルランドが絶対的に世界音楽大国なのもそこなんだよな。

ベートベンがガンだったんだろうな。じゃじゃじゃじゃ~んで、運命なんて、3時のメロドラマでも使えねえよ。

 でも写真の方が好きかな。
 ざらっとしたかんじもあって。制御不能感が好き。

海沼武史 / Takeshi Kainuma さんのコメント...

逝く時がまさにその「時」、、、僕はそう決めたからね。。。

文武両道ではないけれど、芸事と野良事(アリとキリギリスの密着?)、そのどちらかひとつ欠けても面白くないよね。
でも、「面白くないよね」と感じたり、謙虚で過剰な人はそう多くないから、「確たる幸せの王国」は僕の身勝手な妄想、、、アリとキリギリスが仲良くダンスする日は遠からず近からず・・・ならば自分の中だけでとりあえず結婚させちゃえ、って感じかな。はっちいもそうなんだろうけど、だって、愉しいからね。

伝わる人にしか伝わらないって、面白くないよね。