この地球上に、僕たち人間が住めなくなる日はやがて来るだろう。
人類の終焉を、せっせと早めているのは、もちろん僕たち人間なのだが、この地球から消滅するのは「人間界」と呼ばれている生態系だけだから、別に構わないか……。
しかし、問題は<音楽>。
音楽は、この世にあるべきか、あらざるべきか?
もし、この世に人間がつくる音楽、“響き”の表現体がある日ぱたっと消滅したら、僕たちは一体どうなる?
たぶん、医者と薬局が繁盛するくらいで、いや、その繁盛がまたこの世の終わり、人間界の終息を加速化するだけで、やはりこれも大した問題ではない(と、音楽の制作に携わってきた者がこんなことを書くのは問題か……。)
「無人島に一枚だけ持ってゆくCDは?」と訊かれても、電気のない、人間のいない無人島で、人間がつくった音楽を聴きたくなるだろうか?
もし、その島にカモメがやって来るようなら、かれらの鳴き声に耳を澄まし、僕たちはのんびり風と共に過ごすのさ。鳥たちの歌声、波の音がナチュラルオーケストレーション……。
やがて、僕たちは鳥たちの鳴き声に合わせ、思わず口ずさんでしまうかもしれない。
「〜〜〜〜♪」
そしてこの瞬間が、人間の“唄”のはじまりなんだ。(知っていましたか?)
アイヌの唄、ウポポとは、この唄の<はじまり>から、もっとも近い所にあるように感じる。そして今も、そこに身を置いている。まるで、自分の美しさを知らない草花のように。ちいさな恥ずかしがり屋さんのように、目立たず、ひかえめで……唄は、ただ<在る>。
ただ在る、これが一番むづかしい存在の姿だけれど、ウポポはまさに其処に在る。
たとえば、喉をウイウイすればアイヌの唄に近づける、歌えるなどと、おおきな勘違い。唄の出自(ふるさと)は、大自然が鳴らす、奏でる、無限の音色、無数の響きからもっとも近い所に在る。
たとえば、樺太アイヌのトンコリという楽器の生音がなぜあんなに小さくてか細いのか、わかりますか? 人間が意図的にたてる音が、自然界の音をけっして邪魔してはいけない、凌駕してはいけないという思想が、真心が、生活が、彼らの内に揺るぎ無いものとして在ったからだ。大自然の音、もしくは<声>を聴いていた……。
が、最近はどうよ、アイヌの唄を歌おうとする、学ぼうとする日本人が増え、皆、なにを勘違いしているのか、仲良く喉を使ってウイウイやって、恥ずかしくないのかしら?
まず最初に、唄の心(中心)というものを学ぶべきなのだ。そこに身体を拓いてゆくべき。でなければ、自分の心臓に直結した歌い方、自分の足元から淡々と膨らんでくるだろう唄い方を逃してしまう。歌い手の個性、その魂と、それぞれの喉という器官の形状または特徴に合った唄い方以外は、不毛なのだ。
アイヌの唄は誰もが歌える、覚えやすい、シンプルなメロディーだけれど、実は誰もが歌えない、歌い手の心がもろバレしてしまう、歌唱力などでは誤魔化しようのない「なにか」が秘められている、内在されてしまった恐ろしい唄、作品なのだ。だから、気軽に歌わない方が良い、貴方の素性がばれてしまう。
ところで、ネイテイブ・アメリカンのブームが去り(ちょっと乱用し過ぎたから)、次はアイヌだと、品のないスローライフな人々が、「アイヌ」というキャッチに寄り添い、利用して、“表現”することの恐ろしさも知らずに、楽しければいいんだって軽いノリで(でもその自意識だけはへヴィー級)、なんだかワイワイやっているけれども、ほんと最近の日本人ってのは節度・節操を放棄してしまったようだ。
では、唐突に、僕が尊敬するミュージシャン、今日はボブ・マーリーの歌声を。
彼は神でもヒーローでもオピニオン・リーダーでもない。ただ、奇跡的なミュージシャンだった、としか言えない。
この曲のタイトルは「Redemption song」というのだけれど、直訳すると「救いの唄」って感じか。
他のジャマイカのレゲエ・ミュージシャンはほとんど「スタイルとイメージ」で終わったけれど、彼の音楽、唄は「スタイル」ではなかった。単独的で、荒唐無稽な幻想力、想像力(愛)をもっていた。ゆえ、日本人がドレッドヘアーにしてどうすんのさ!って話。。。
Bob Marley - Redemption song