2025/03/08

Boys Meeting 落とし所


 

精神病院の経営はリピーターによって成り立っていると言っても過言ではない。そこにご新規さんがぞろぞろ新たに仲間入りするのだから、商売として見たらコレ笑いが止まらない。
しかし実際、この精神科スペースに数多の無表情はあっても明朗な笑いはない。
精神病院の右肩上がりの成長率とは、我が国の経済効果にはまったく寄与せず、せいぜい外資系の薬品会社を潤すだけ。(しかしこんな感じで患者数が増え続けたなら、一体この先、我が国はどうなるんだろう?)
サイキアトリストでもクリニカルサイコロジストでも肩書きはどうでもいいから、「早く治せやー、この給料ドロボー!」と、ある看護師の嘆き。笑
そしてある快晴時、アホの三浦(仮名)32歳が仕事中の僕に近づいて来た。
「カ、カ、カイヌマさん、いまそこを通った人に僕は税金ドロボー!って言われました」と、無表情に愚痴った。
「あぁ、彼か……。よく見かけるよね。役所関係の人だよね」 
やや哀しみを押し殺したような複雑な表情を浮かべ、小さく頷いた若き生活保護受給者。
「そりゃ、立場上、腹の中で思ってても決して面と向かって言っちゃ〜いけないコトバだよな。(笑)でも、それ事実じゃん!ハハハ」と僕。
さらに次いで「まぁでも、悪意があってそう言ったんじゃないから。とにかく疲れてんだよ、ストレス溜まってんだよ」と、50手前の国税によって老後は安泰万全の暮らしが待っている地方公務員をなぜか弁護していた。
合点のいかぬ顔をしながら聞いているアホの三浦。
皆、それぞれの立場から様々の不服、不満を抱き、本音を押し殺し生きている。時に漏れてしまうこともあるが、とにかく必死で、幸せになりたいと、アホの三浦だって同様、もちろん僕も御多分に洩れずこの世にしがみつき、生きている。
一見、公平に、死を待つだけの何とも奇妙なこの世界。
だが、こんな説もある。「きみが見ている世界とはきみの意識、思考内容、欲望的信念、心の一部が作り上げた(想像)世界だよ(だから実在していない)」と。
さらに「この世界の存在証明は、きみの身体と知覚の連動によるものだけれど、そもそもその身体もきみが世界を存在しているような錯覚を起こさせる為に作り出された(妄想された)ものだからね」。
ってことは、アホの三浦も市民からのクレームに酷く怯えている公務員も、全員僕の一部であり、この世界そのものが(本人はあまり自覚出来ていない)自虐的な妄想に起因する、と。
だからもうそろそろ、この銀河世界劇場を作り出した意識本体まで遡行し、この意識そのものを観照しうる視座(気づき)へと移行し、この意識そのものが実は夢のセントラル採掘場、張本人であった事を見抜くこと。これが、最期の落とし所。

Boys Meeting2019年作)
 
 

 

2025/03/06

the end park ただのジョークさ

 


社会に対してとやかくその倫理的な不備について物申す、または愚痴るのは実に容易いことで、だいたい社会的劣等感の強いタイプが総じてこの「とやかく正しいことを言う俺ってイケてる」的な罠に引っかかりやすい。


インドのガンジス川と東京の多摩川はもちろん違う。

公的に、水浴できる場所があるのは良いことだ。さらにそこが祈りを捧げる場所でもあればもっと美しい。

僕は最近常々思うのだか、公的に、「ここなら野垂れ死にしても構わないよ」的なスペースが(もちろん屋外)、この国のどこかに作られたら、ほんと死に対する考え方の革命的な取り組み、希望や安堵も膨れ、それはまさに豊かさの爆発なんじゃないかと思っている。笑

ホームレスや乞食、いわゆる社会的心身脱落者の不幸とは、現在の社会が、その経済システムの原理原則上、国の衛生管理学上、「君たちはこの社会のお荷物だからそこんとこよろしく!」という烙印をその傷ついた心にさらに追い打ちをかけるか如く、無表情に押してしまうところにある。そんな気がする。

今は、野垂れ死にを希望し、姥捨山ではないが、静かに死にゆくまでの時間をゆっくりと休めるスペースがどこにも無い。それがこの国の貧しさだ。


庶民の、心理面における強度は、江戸の世と比べたら、確実に落ちている。いや、体力も、寒暖への抵抗力も、バイ菌の免疫力も確実に落ちている、はず。

食生活や娯楽の豊かさ、職種の多様さと心の強度は決して比例しないもの。

ただ、現代人は江戸時代の人々と比べ、総じて意識の明瞭さは手にしたかも知れない。


国策と政策ーー。

この世界は、どんなOS(システム)を導入してもバクが出るようになっている。身体の世界、五感に信を置く現象世界とはそういうものだ。

20世紀にコンピューターが開発され、あっという間にお茶の間の必需品となり、コンピューターにまつわる仕事や犯罪が、19世紀には誰も想像できなかった新種の問題や恐怖をぎょうさん生み出してしまったように、今後の未来、いわゆる宇宙開発がますます進み、めでたく地球以外の星々の移住がふつーに可能になったとしても、やはりそれに付随しためちゃ厄介な問題を膨大に抱え込むことになるだろう。

ゴールの無い、何処にも行きつかないゲーム。この世界とは、人間の暮らしは、外的にどんな状況に移り変わろうとも、いわば上がりの無い、死という上がりしか容認しない。(ならば死に方ぐらいに自由にさせて〜。)

どーせ世界についてあれこれ考え思い悩むフリをするなら、もし世界や人々の生き方や環境等々に真面目に憂慮するなら、一度そこまで極端に考えを推し進めるガッツが無ければ、全てその場しのぎ的な、精神病者への気休め薬物治療とおんなじ、対処療法的な薄められた取り組み、卑小な問題解決でしか無いのに「あれが問題だ!これが問題だ〜!」と大袈裟に騒ぎまくるだけで、この世のゲームを俯瞰することも叶わず、一歩も〈外〉には出れないだろう、死以外には。


覚者とは、絶えず根源的な視座に立ち、絶対的な根本療法を明示してきた稀有な存在であったように益々感じる今日この頃のオヤジの雑感。


この世界とは、この世界が狂気の場所に過ぎなかったことを悟るまで続く。


the end park1991年作)

 

 



2025/03/02

owarikata はじめ方

 


郊外の、土日祭日には都心の方から登山客でごった返す観光地の外れにある総合精神病院の外来駐車場のド真ん中で、仕事の合間、その立ち位置から見える辺りの遠景を、何かが到来する予感に満ちた感情の色彩が濃厚に滲んだ定点観測風写真撮影を続けていたのは確か今から7年前のこと。ついこの間のような気もしますが、現在は撮影することもなく仕事中はじっと思索しています。笑
「撮影を続けないの?また撮影すれば良いのに」
「散々撮ったからね。また撮影を始めたらそれこそ無味乾燥な定点観測写真になっちゃうじゃん」と、その場所に立ち、何か新しい光景が見え出したら再び撮影を始めるのでしょうが、今はただ精神科病院の外来駐車場のど真ん中で思索三昧!(最近のブログの文章は全てここで考えたこと。)

ところで、この病院で成り行き上親しくなった入院者は数名いますが、今日はそのひとりを紹介ーー。
この方、若い時分に心の病に罹り、30年近く入退院を繰り返し、現在50歳ちょい過ぎの、関東方面の精神医療施設、病院などを転々とし、9年ほど前この病院に送り込まれ、なんとその人生の半分以上が施設と病室暮らしというかなり数奇な運命を辿って来た方。たまたま音楽の趣味が合い、こちらがズケズケものを言ってもさほど動じない無邪気さと、根は豪胆な部分もあり、仕事の休憩時間を利用しては様々のことを話し合った。
40代の頃に密教思想にハマり、母親との諍いごとで思わず九字切りをして倦厭され、のちにクリスチャンとしての洗礼を受け、今は行きつけの教会でゴスペル音楽を歌うことを歓びとしていますが、たぶん音楽と自己防衛的な信仰心が彼の唯一の心の支えとなっています。
では本題、彼との会話のエピソードをひとつ。
ある時、僕としてはかなり意を決して(笑)、「この世界ってさ、ほんとうは無いんだって知ってた?」と切り出してみた。
すると彼は一瞬不安げな表情を浮かべ
「また〜、海沼さん、やめて下さいよー、そんなこと言うの」と明らかに動揺し始めた。
「でも、お釈迦さまだって、この世はマーヤ、幻って言ってたじゃん」とフォローのつもりで続けると「海沼さん、その話はまた今度にして下さい」と後ずさり……
「この世界は無い、幻想である」と言う発言が、人間社会から狂人のレッテルを貼られ、監視付きの隅っこの方へと追いやられ、薬漬けにされて、院内では人間の様々のバリエーションの狂態ぶりや摩訶不思議な悲劇を見てきたであろう精神病院のベテラン入院者でさえも「この世界は幻!」というあの仏陀のコペルニクス的大転回なお知らせには恐れ慄き、そそくさと院内8床室へ退散。
さんざん人間と人間が壮絶な殺し合いをしてきた野蛮な歴史を持つこの地球、社会通念や公的マナーからちょっぴり逸脱し、自分たちをクッション付きの壁に囲まれたガッチャン小宇宙(保護室)に隔離したこの世界が夢であったらそれこそ最高の救い、救済ではないか?
こんな世界、こんな寒々とした真っ暗闇の宇宙空間でもまだ存在して欲しいという人間の奥深い荒唐無稽な欲望、圧倒的狂気、深く吟味されたことも無い潜在的な信念(この世界はある、時間と空間は存在する、とか)について、彼を通じ、あらためて深く考えさせられた。いや、人ごとでは無いのだ。人間の心、意識の実態、その巧妙極まりないカラクリとは?
「(この世界が無いってことは、つまりきみや僕が考える、もしくはこの自己実感って奴も幻想、イメージに過ぎないってことになるよね)」 
なるほど、この言葉、この知らせ(真理)こそが、人間社会にとっては最大の狂気かも知れない。
なぜなら、この仏陀の教え、達眼をそのまま了解したなら、たとえば日本仏教の諸々の形式、行事、決まりごとなどは反仏陀、仏陀の思想に非ずという恐るべき論理的および感性的帰着。
さらに仏陀の教え、この眼差しによれば、世界について考える、社会に蔓延る諸問題について考えること自体が、幻想について思案し、幻想に取り組むということとなります。
限られた自分の想念、反復的な妄想から逃れられない統合失調症者と比べ、この世界を少しでも良くしようとする者たちの思考の情報量、豊富な経験値、さらにその正義感に満ちた想い、良き想像力などなどをベースにした取り組みは、きっと世界の多くの不平等をなだらかにし、より住みやすい社会、人間の暮らしをより快適に、より便利に、未来の子供たちの為に大いに役立ってくれることでしょう。
ですが、常人も、いわゆる社会的排除者も、両者共に幻想の中に居て、夢を見ているという意味では五十歩百歩。仏陀の明視は、人間の根本的問題、人類の不幸の根とは、移り変わる諸現象であるこの社会や世界構造の不備や欠陥部分、ありとあらゆる問題や不条理にあるのではなく、人間がまだ夢の中に居てこれに気づかず執着し、翻弄され、夢と戦い、挑み、また魅了され、この夢の世界での幸せのみを追い求め、ひたすら夢を見続けていることにあると。
ではなぜ、一体誰が、僕たちが共有できる「現実」としてこの夢の舞台を必要とし、作り出したのか?

owarikata2010年作)
 
 

2025/03/01

amore 異郷百景


 

これは写真撮影している際にも起こることですが、音楽制作をしている最中、やや普段とは違う次元、別の人?になっていたのか、後日、大方出来上がった楽曲をあらためて聴くと「え?!なぜこの音とこの音を選び、重ね、こんな展開にしたのだろう?」と、自分でも驚くことがあります。それでその時の制作状況や心理状態などを思い出そうとするのですが、なんとも曖昧で、ほとんど記憶から抜け落ちています。写真の場合だと「え?誰が撮影しの?」と。
なので「似たような曲をもう1曲作ってよ」と、仮に誰かからオファーされてもたぶん2度と作れないと思います。これは写真表現も同様で、僕には幾つかの写真シリーズがありますが(シリーズで区切ることによって次のシリーズへ進めるから)どのシリーズも2回目は無いのです。
今回アップしたこの「amore」という楽曲も、当時の心理状態をあまり思い出せません。
「ん~作らされたのか?」
でもそもそも音楽を作ろうという意欲が無ければ作らされることもないので、何かしらの理由や意味はあったんだと思います。
ところで、最近、写真のことも含め、音楽について、今まで考え感じてきたことなどをこのブログに書いていますが、創作の動機や意図について言語化する作業を自分に課すのは、ある人物と出会うまでは必要ないことだと思っていました。
2年ほど前に、内田和男さんという人物と知り合い、彼と度々セッションを重ねてゆく内に、自分が写真や音楽を作り続けてきた意味を、深く問うことへの有意性を知りました。それまでは「言葉では表現出来ない世界を、写真や音楽という表現形式を通じて表そうとしているわけだから、作品に言葉というキャプションは不要」と敬遠してきたので。もちろん自分が大事と思う中心テーマは持っていましたが、それを明確に、詳細に言語化することは、表現の自己規制に繋がるのでは?言葉に縛られ自由な表現が抑制されるのでは?と恐れていたのかも知れません。
では、写真や音楽という表現を通じて、僕は一体何を求めてきたのか?
何を開示しようと願っていたのか?
写真は、見ることのレッスンであり、対象をじっと見ること、撮影とは注視することであり、いわば観照の状態に身を起くことです。
音楽は、耳をそばだて、その音たちが拓くフィールドで何か起こっているのかを見詰め、持続的な集中へと意識が向かうので、これもまた観照の状態に入ると言えます。
たぶん創作とは、すべて観照状態に我が身を置くことではないのか。
そして、そこで始めて見えて来る世界、聞こえて来る(音が遍満する)世界があります。
この世界とは、「この世ならざらヒカリ」の謂ですが、僕がこれまで写真や音楽の制作を続けられた1番の要因は、たぶん創作という行為が、「ヒカリ」と1つになる事を可能にしてくれたからだと、今にして思います。

この「amore」には、一般的な音楽ではあまり耳にしない音たちが表れますが、これは若い時分に聴いたアメリカの現代音楽の作曲家デイヴィッド・チューダーの作品から学んだことです。ただし、彼の作品とは異なり、内的に、ひとつひとつ音や響きに自分の心を交錯させています。(彼の作品は音を放りっぱなしですので。笑) 
ですから先入観なしに聴いていただければ、音たちが織りなす世界へやんわりその心を預けてくだされば、僕の意識がいかにその音たちと交流し、さらに耳や眼がどのように動き、一体どこを目指して、「この世ならざらヒカリ」に触れたのか、追体験できるように思われます。

あなたはすでに今ここで完成している。完成することができるようなものはあなたではない。あなたはあなた自身でないものをあなただと想像しているのだ。(ニサルガダッダ・マハラジ)

amore2021年作)