2025/03/10

Peruvian City 見ずの開き

 



土木作業員からすれば「何言ってやがんだ〜!」となりますが、屋外専門フォトグラファーも、鋭い陽光に照らされ、また雨の中をぶるぶる震えながら、大地と仲良しとなり、また道を這い回る人種なんだと。

そんな撮影スタイルで、30年間歩き続けて来た者が、屋根や壁に守られた部屋で物撮りを始めても、屋外撮影での記憶がびっしり刻み込まれた身体と眼で撮影に望むわけだから、そこから生まれる写真は、きっと通常のスタジオ撮影とは異なるオーラが定着されるだろうし、またそんな期待を抱いていなければ、雨風に晒されることのない屋内での物撮りなどナンセンスさ、と息がってみました。笑

さて本題ーー。

今朝、Yahooニュースで村上陽一郎という科学史家・科学哲学者の新刊案内の記事を見かけ、名前は知っていましたがその著作を手にしたことは無く、ただそのインタビュー記事を読むとなかなか興味深いことが書かれていて、思わず色々検索してたら大森荘厳という哲学者の文章に行き当たる。

最近、このブログで、写真や音楽のみならず意識とか真理、知覚や身体、心などについて書いていますが、僕が考えていることはすでに様々の哲学者が考え抜いてきたことなんだなぁ〜と。

ただ、面白い!と感じたのは、似たような意味、内容、視座について、人それぞれの言語表現が、言い回し、表し方がありますよね。

土木作業員からすれば、たぶん「何言ってやがんだ。さっさと手動かせや〜!」ですが、大森荘厳が書いてます。


"いずれにせよ、次のことは言えよう。もし私に「見え」、私が「触れ」、私が「味わう」ものすべてが「心像」であるならば、私の生きる世界はすべて「心像」であるはずである。だとすれば、「心」は私の内にひそむ何ものかではなく、私の部屋に、街に、海に、空に、日に月にまで拡がっている何ものかなのである。幻といわれるものすら私の外に見えるのである。まさに「心」と呼ばれたものは「世界」なのである。"『物と心』(1975


哲学とは、そんな堅苦しいものでも、難しいものでもありません。それが始まった理由は、結局この地球という場所に産まれて、「なんだかここで暮らしていても、どうにもこうにも納得いかんこと、解せないことが多過ぎるんだよなぁ。なんでこんなカタチをした身体を持ってなきゃいかんのだろう? 生まれるとか死ぬとか、考えるとか感じるとか、モノが見えるとか、食べるとか、訳の分からん空間や時間に制限され支配された人生って、何のためにあるの? ここは一体何なのさ?」という疑問からなので。

もし、人類が登場し、この地上生活がすべての人間にとって満足のゆくものだったなら、決して〈哲学〉なんて生まれるはずも無し。

たぶんこの地球上の暮らしとは、大昔からニンゲンにとってはどうにも合点がいかぬものだったんじゃないかしら。

 

Peruvian City(2019年作)

 

 


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