社会に対してとやかくその倫理的な不備について物申す、または愚痴るのは実に容易いことで、だいたい社会的劣等感の強いタイプが総じてこの「とやかく正しいことを言う俺ってイケてる」的な罠に引っかかりやすい。
インドのガンジス川と東京の多摩川はもちろん違う。
公的に、水浴できる場所があるのは良いことだ。さらにそこが祈りを捧げる場所でもあればもっと美しい。
僕は最近常々思うのだか、公的に、「ここなら野垂れ死にしても構わないよ」的なスペースが(もちろん屋外)、この国のどこかに作られたら、ほんと死に対する考え方の革命的な取り組み、希望や安堵も膨れ、それはまさに豊かさの爆発なんじゃないかと思っている。笑
ホームレスや乞食、いわゆる社会的心身脱落者の不幸とは、現在の社会が、その経済システムの原理原則上、国の衛生管理学上、「君たちはこの社会のお荷物だからそこんとこよろしく!」という烙印をその傷ついた心にさらに追い打ちをかけるか如く、無表情に押してしまうところにある。そんな気がする。
今は、野垂れ死にを希望し、姥捨山ではないが、静かに死にゆくまでの時間をゆっくりと休めるスペースがどこにも無い。それがこの国の貧しさだ。
庶民の、心理面における強度は、江戸の世と比べたら、確実に落ちている。いや、体力も、寒暖への抵抗力も、バイ菌の免疫力も確実に落ちている、はず。
食生活や娯楽の豊かさ、職種の多様さと心の強度は決して比例しないもの。
ただ、現代人は江戸時代の人々と比べ、総じて意識の明瞭さは手にしたかも知れない。
国策と政策ーー。
この世界は、どんなOS(システム)を導入してもバクが出るようになっている。身体の世界、五感に信を置く現象世界とはそういうものだ。
20世紀にコンピューターが開発され、あっという間にお茶の間の必需品となり、コンピューターにまつわる仕事や犯罪が、19世紀には誰も想像できなかった新種の問題や恐怖をぎょうさん生み出してしまったように、今後の未来、いわゆる宇宙開発がますます進み、めでたく地球以外の星々の移住がふつーに可能になったとしても、やはりそれに付随しためちゃ厄介な問題を膨大に抱え込むことになるだろう。
ゴールの無い、何処にも行きつかないゲーム。この世界とは、人間の暮らしは、外的にどんな状況に移り変わろうとも、いわば上がりの無い、死という上がりしか容認しない。(ならば死に方ぐらいに自由にさせて〜。)
どーせ世界についてあれこれ考え思い悩むフリをするなら、もし世界や人々の生き方や環境等々に真面目に憂慮するなら、一度そこまで極端に考えを推し進めるガッツが無ければ、全てその場しのぎ的な、精神病者への気休め薬物治療とおんなじ、対処療法的な薄められた取り組み、卑小な問題解決でしか無いのに「あれが問題だ!これが問題だ〜!」と大袈裟に騒ぎまくるだけで、この世のゲームを俯瞰することも叶わず、一歩も〈外〉には出れないだろう、死以外には。
覚者とは、絶えず根源的な視座に立ち、絶対的な根本療法を明示してきた稀有な存在であったように益々感じる今日この頃のオヤジの雑感。
この世界とは、この世界が狂気の場所に過ぎなかったことを悟るまで続く。
the end park(1991年作)
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