2025/03/01

amore 異郷百景


 

これは写真撮影している際にも起こることですが、音楽制作をしている最中、やや普段とは違う次元、別の人?になっていたのか、後日、大方出来上がった楽曲をあらためて聴くと「え?!なぜこの音とこの音を選び、重ね、こんな展開にしたのだろう?」と、自分でも驚くことがあります。それでその時の制作状況や心理状態などを思い出そうとするのですが、なんとも曖昧で、ほとんど記憶から抜け落ちています。写真の場合だと「え?誰が撮影しの?」と。
なので「似たような曲をもう1曲作ってよ」と、仮に誰かからオファーされてもたぶん2度と作れないと思います。これは写真表現も同様で、僕には幾つかの写真シリーズがありますが(シリーズで区切ることによって次のシリーズへ進めるから)どのシリーズも2回目は無いのです。
今回アップしたこの「amore」という楽曲も、当時の心理状態をあまり思い出せません。
「ん~作らされたのか?」
でもそもそも音楽を作ろうという意欲が無ければ作らされることもないので、何かしらの理由や意味はあったんだと思います。
ところで、最近、写真のことも含め、音楽について、今まで考え感じてきたことなどをこのブログに書いていますが、創作の動機や意図について言語化する作業を自分に課すのは、ある人物と出会うまでは必要ないことだと思っていました。
2年ほど前に、内田和男さんという人物と知り合い、彼と度々セッションを重ねてゆく内に、自分が写真や音楽を作り続けてきた意味を、深く問うことへの有意性を知りました。それまでは「言葉では表現出来ない世界を、写真や音楽という表現形式を通じて表そうとしているわけだから、作品に言葉というキャプションは不要」と敬遠してきたので。もちろん自分が大事と思う中心テーマは持っていましたが、それを明確に、詳細に言語化することは、表現の自己規制に繋がるのでは?言葉に縛られ自由な表現が抑制されるのでは?と恐れていたのかも知れません。
では、写真や音楽という表現を通じて、僕は一体何を求めてきたのか?
何を開示しようと願っていたのか?
写真は、見ることのレッスンであり、対象をじっと見ること、撮影とは注視することであり、いわば観照の状態に身を起くことです。
音楽は、耳をそばだて、その音たちが拓くフィールドで何か起こっているのかを見詰め、持続的な集中へと意識が向かうので、これもまた観照の状態に入ると言えます。
たぶん創作とは、すべて観照状態に我が身を置くことではないのか。
そして、そこで始めて見えて来る世界、聞こえて来る(音が遍満する)世界があります。
この世界とは、「この世ならざらヒカリ」の謂ですが、僕がこれまで写真や音楽の制作を続けられた1番の要因は、たぶん創作という行為が、「ヒカリ」と1つになる事を可能にしてくれたからだと、今にして思います。

この「amore」には、一般的な音楽ではあまり耳にしない音たちが表れますが、これは若い時分に聴いたアメリカの現代音楽の作曲家デイヴィッド・チューダーの作品から学んだことです。ただし、彼の作品とは異なり、内的に、ひとつひとつ音や響きに自分の心を交錯させています。(彼の作品は音を放りっぱなしですので。笑) 
ですから先入観なしに聴いていただければ、音たちが織りなす世界へやんわりその心を預けてくだされば、僕の意識がいかにその音たちと交流し、さらに耳や眼がどのように動き、一体どこを目指して、「この世ならざらヒカリ」に触れたのか、追体験できるように思われます。

あなたはすでに今ここで完成している。完成することができるようなものはあなたではない。あなたはあなた自身でないものをあなただと想像しているのだ。(ニサルガダッダ・マハラジ)

amore2021年作)
 
 

 

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