「橋」であるとか「トンネル」、または「三途の河」ね。もしくは「踏切」とは、どうもニンゲン存在に「こちらとあちら側」を強烈に意識させる文物であり、メタファーに使われたりもしますが、僕は最近、この町に住みだしてずうっと気になっていた「踏切」を、ある夜、とうとう撮影しに行った。
「最近は携帯電話でしか撮影してませんから・・・」などと告白しましたが、なんとなく、3~4日前、近所にときおり深呼吸しにいくお気に入りの場所があるのですが、三脚かついでそこに赴き、「ああ、撮れるね」とココロ騒ぎ、一眼デジタルで「踏切」を撮影しました。
この写真---。
ちなみに、この踏切以外にも、もう一つだけ、僕の愛する踏切が近くにありますが、そこには「とまれみよ」という表示板が取り付けられています。
「とまれみよ!」だよ、凄い表記、コトバですね。
たとえば、踏切の形而上学、精神の踏切としてこのコトバを注視するなら、この「とまれみよ」とは「汝自身を知れ」であり、「あんた、“無知の智”、ね」でありましょう。ソクラテスの「無知の知」とは、「わたしはな~んも知らない事を知っている」ですが、「世界」というのはそれぞれの心、意識の劇場内でのドラマ、投影認知でありますから、「あんたはあんた自身の事をなんも知らない」とは、「世界」のことを実はみんな何も知らない、となります。
ちょっと疲労コンバインの中でいま書いてますので、かなりイイから加減なすっと飛び文章になってますが、僕が「踏切」を撮影して、ひどく痛感したことを最後に書いて、なんとか文態を保とうとするなら、あの世だのこの世だの、それは「踏切」を超えてない人たちの概念、物語であり、そこをひとたび超えてしまった、踏切超えをした人たちにとっては、恐るべきことに、あちらもこちらも無いわけで、つまり「踏切これ自体」が消滅する。「踏切」だの、「橋」だの、「三途の河」ね、いわゆる「境界」自体が無化してしまう。この考えは、いまの僕にとってはたいへん心地よいアイデアで、ほら、お釈迦さんの滅茶苦茶ツッパッタ言葉、「あの世もこの世もともに捨て、犀の角のようにただひとり歩め」な~んてオンガクが、まるで響いてくるかのよう。。。
学生の頃、僕は17,8で、ウイリアム・ブレイクおよびドアーズの「ブレークスルー」という概念、思想にひどく心臓を揺さぶられましたが、あれからすでに30年が経ちました。そしてようやく、とうとう・・・、僕はニヤニヤしながら、この身体を連れ、生きたまま、この「踏切」を渡っちまおうかと思っています。
でも、もし失敗なんかしたら、どうか皆さん、笑ってくださいね。