2009/10/30

踏切 / railroad crossing


photo by Takeshi Kainuma


「橋」であるとか「トンネル」、または「三途の河」ね。もしくは「踏切」とは、どうもニンゲン存在に「こちらとあちら側」を強烈に意識させる文物であり、メタファーに使われたりもしますが、僕は最近、この町に住みだしてずうっと気になっていた「踏切」を、ある夜、とうとう撮影しに行った。
「最近は携帯電話でしか撮影してませんから・・・」などと告白しましたが、なんとなく、3~4日前、近所にときおり深呼吸しにいくお気に入りの場所があるのですが、三脚かついでそこに赴き、「ああ、撮れるね」とココロ騒ぎ、一眼デジタルで「踏切」を撮影しました。
この写真---。
ちなみに、この踏切以外にも、もう一つだけ、僕の愛する踏切が近くにありますが、そこには「とまれみよ」という表示板が取り付けられています。
「とまれみよ!」だよ、凄い表記、コトバですね。 
たとえば、踏切の形而上学、精神の踏切としてこのコトバを注視するなら、この「とまれみよ」とは「汝自身を知れ」であり、「あんた、“無知の智”、ね」でありましょう。ソクラテスの「無知の知」とは、「わたしはな~んも知らない事を知っている」ですが、「世界」というのはそれぞれの心、意識の劇場内でのドラマ、投影認知でありますから、「あんたはあんた自身の事をなんも知らない」とは、「世界」のことを実はみんな何も知らない、となります。
ちょっと疲労コンバインの中でいま書いてますので、かなりイイから加減なすっと飛び文章になってますが、僕が「踏切」を撮影して、ひどく痛感したことを最後に書いて、なんとか文態を保とうとするなら、あの世だのこの世だの、それは「踏切」を超えてない人たちの概念、物語であり、そこをひとたび超えてしまった、踏切超えをした人たちにとっては、恐るべきことに、あちらもこちらも無いわけで、つまり「踏切これ自体」が消滅する。「踏切」だの、「橋」だの、「三途の河」ね、いわゆる「境界」自体が無化してしまう。この考えは、いまの僕にとってはたいへん心地よいアイデアで、ほら、お釈迦さんの滅茶苦茶ツッパッタ言葉、「あの世もこの世もともに捨て、犀の角のようにただひとり歩め」な~んてオンガクが、まるで響いてくるかのよう。。。
学生の頃、僕は17,8で、ウイリアム・ブレイクおよびドアーズの「ブレークスルー」という概念、思想にひどく心臓を揺さぶられましたが、あれからすでに30年が経ちました。そしてようやく、とうとう・・・、僕はニヤニヤしながら、この身体を連れ、生きたまま、この「踏切」を渡っちまおうかと思っています。

でも、もし失敗なんかしたら、どうか皆さん、笑ってくださいね。

 

 

2009/10/28

身体の意味 / physical origin

 10.27.2009

「え、とりあえず・・・、身体はちゃんと着けておかなくっちゃ、ね。」


N-04A (夢のない眠り)』より 

2009/10/21

なんともはや / guardman's report-2


僕が生まれたのは昭和37年10月3日で、今月は47回目の誕生日月、なんともはや、一昨日、勤務中に車にはねられてしまいました。もちろんこれは初体験。が、命に別状ナシ。別状あれば、こんな風にブログは書けない。ちなみに僕が車にぶつけられる瞬間、その一部始終見ていた人々はなぜか多く、目撃した隊員(同僚のこと)や職人さん、現場監督さんらによると、まるでひょろ長い人形がガクッと倒されるかのようだった、と。
この仕事に就き、1ヶ月ぐらいして、僕は生まれてはじめて人身事故というものを目撃しましたが、まさかその数ヵ月後に自分が車に“轢かれる”のではなく“ハネラレル”とは、フツー想像しない。犬のユタは轢かれて死んだけど、僕ははねられた。なんか…辛いね。
10月19日月曜日の18時頃、あたりはもう真っ暗で、僕はいつものようにH氏と組んで片側交互通行、息のあった誘導ぶり、「あと15分ぐらいで開放だな」と、まあ、最後まで気を抜かないように誘導灯とジャケットを赤くピカピカ点滅させて、で、僕は身長が186ありますから、まあ、目立ちます。じゃあ、なんで車がどーんとぶつかって来るのよ…。しかし運が良かったのでしょう、救急車に連れ去られることも無く、なんだあーかんだあーと警視庁の交通捜査係のマニアックな現場検証に付き合わされ、約2時間ぐらいその場に佇んでいなければならず、ドライバーの方、お気の毒に、そして最後までお付き合いしていただいたウチの警備会社とはまったく関係のないクライアント、現場監督さん、ただただ申し訳なく…。でもね、一歩間違ったら、つまり打ち所や交わし方を間違えていれば、もし車が軽自動車ではなく四駆だったら、そしてもし、その車の速度が30キロではなく50キロ以上のスピードでぶつけられていたら、僕はこの世とおさらばしなければならなかった、いや、通院生活とリハビリとか、半身不随とか・・・、そう考えると「嗚呼・・・」、実に恐ろしくなります、だから考えない。
それで、現在、僕はぴんぴんしているんですが、昨日今日と現場に出れたし…。ただ、近づいて来るクルマに対してやたら身体が引く、皆さん、運転にはくれぐれも気をつけましょう!!
「ガードマンズ・レポート-2」でした。

p.s.それで家路に着きカミさんに事後報告した際のその一言がケッサク。「あんたねえ、いつも人とぶつかっているから、車にぶつけられるのよ」だってさ。

 

 

2009/10/17

クモノカミワザ / Camp Master


或る時、銀細工職人Ague(本名:下倉洋之)が近くの軒下に張られていた見事な蜘蛛の巣を指差して、「ほら、これ凄いでしょ・・・」と、熱っぽく語りはじめた。
普段は、どちらかと言えば無口、寡黙な男が、時に、何かが弾けてしまった様に饒舌に、その大きな丸い濃い瞳の奥を、まるで燻し銀のような重厚な光を煌かせ、爛々と、語りだすときは、聞き手はとりあえずその気持ちを抑え、聞き入らなければならない。
いつもは、たえず僕の聞き役に回っている、というか回らされているちょっぴり不運な男が、そう、或る時、蜘蛛の巣、その糸の材質の類稀な強度について、僕に熱弁をふるってくれたのだ。
・・・以来、蜘蛛の巣を見るたびごとに、彼のコトバが僕の内で渦を巻くようになった。

そして下記の写真は、彼の手仕事です。これ、実はペンダントなんですよ。

2009/10/14

インストゥルメンタルの魅力 / guitarist

インストゥルメンタルとは、“人声を用いず、楽器のみで演奏された音楽、「器楽曲」と呼ばれる。”らしいのですが、えー最近、超メジャーなミュージシャンの動画をこのブログにおいてさらりご紹介しましたが、今回はややメジャーな、それもインストゥルメンタル、ギタリストの仕事、音楽を聴いていただきたいと思います(ナ~ゼ?)。
まずはじめにマイケル・ヘッジス---。
僕がつまらん御託を並べる前に、下記の動画を見ていただくのが一番分かりやすいのですが、念のため、きっちり彼の音楽と対峙してもらうために、ちょっとムニャムニャ囁いておきますが、彼は天才です。
(ステイングやボノ、シンニード・オコーナー、またはトレイシー・チャップマンも、“天才”って感じじゃないよね。)
つまり、今から皆さんは天才のaura、その姿、彼が紡ぎだす音楽(ナニカ)に触れてしまうのですが、準備は出来ていますか。天才とは、滅多に出会えませぬよ。
この動画、映像はサイテーであり、音源・録音状態も劣悪でありますが、YouTubeってのは凄いですね、天才と出会う場、時間などをたまに提供してくれるのです。
もちろん天才ギタリストと言えば、パコ・デ・ルシア(Paco de lucia)なんかも巨星ではありますが、なぜか僕はあまり彼の音楽には魅了されない。その理由を書くとなると長くなりそうなので今回は止めておますが、マイケル・ヘッジスの音楽の素晴らしさとは、どこの国の、どこのジャンルの音楽なのか、もはやまったく意味をなさない“処”までイッテしまっている、というところにあります。マイルス・デイビスの音楽がもはや“jazz”とは呼べず、またボブ・マーリーの音楽も、あの暢気な“reggaeちゃんちきおけさ”を超えてしまっている・・・で、天才と供に眠ると魘される、そこがまたサイコーでしょう?


Michael Hedges - Ragamuffin


Paris, Texas - Wim Wenders - 1984 (music by Ry Cooder)


Michael Hedges - Aerial Boundaries

2009/10/12

床絵美のライブレビュー / Review



~「霧の中の騾馬」堀内幹のブログより~

『オニグルマvol.5』 2009.10.06 Tuesday 02:01

4番目・床絵美

普通は皆で唄うウポポをひとりで唄うという珍しい形で出演してくれました。
圧倒的に素晴らしかったです。
唄、ムックリ、トンコリ、どれをとっても余分なところがない。
それは非常に生き物の鳴き声や自然の音に良く似ていて、単純、シンプルなものなのに、その中にすべてが存在しているという安心感を与えてくれる。まして彼女の声から愛情、慈しみの温度があふれている。
ただそれだけではなくて、なんだろう音が脳みそのしわの間に入り込んでくるというのか、音がチリチリと頭のなかで電気のようになって暴れていました。そして、涙がでました。
前者が長い時間と巨大な空間を通ってきた普遍的で社会のものの唄の力で、後者のチリチリとしたものが床絵美さんが発する磁場であり、その両方が存在する音は本当に強いものでした。
勉強になりました。
私が床絵美さんと友人であり、アイヌの音楽に少しは慣れ親しんでいるということを差し引いても、今回のライブは素晴らしかったと思います。
加えて私事ですが、ライブハウスで初めて私の歌(「借りものの歌」)をうたってもらい、そして初のゲスト出演として一緒に歌うという経験までさせてもらいました。
初と言えば、ギターの弦をもう10年以上は頭のところから余分な弦を伸ばしっぱなしにしていて、そのノイズが好きだったりしたのですが、切りました、今回。
おそらく当分はこれで行くと思います。
あと、ギターの音をマイクで拾うといろいろ問題があって、ピックアップをつけ、ラウドにする方向で来ていたのですが、それももうやめにすることにしました。
あまりのトンコリの音の美しさや、能管・篠笛の本来の音の届き方など考えると、その音の拾い方のこともそうですが、楽器をやはり作ろうかなと思いました。
と、本当にいろいろ大切なものをいただけた夜でした。


台風一過 2009.10.08 Thursday 14:30

『オニグルマvol.5』での床絵美さんのライブ、その後考えていることについて書いてみたいと思います。
先月、あるミュージシャンのライブに行ったとき、「人の前でやるのは飽きた。自然を相手にしたほうが気持ちいい。」
とその人はおっしゃっていて、確かに私もそんな気がするけれど、それはなんだか個人的な気持ちの問題で、その音楽はいったいどうなのかとどこかに引っかかっていました。
それでこの前の床絵美さんのライブ。
終了後、お客さんとしてきてくれたドラマーが、「外にいるようでした。そういうのって日本のであまり無いですよね。」と言っていました。
アイヌのウポポとは、という話になると記憶力の弱い私にはどうしようもなくなるのでよしますが、ただ、あの夜会場にいたおそらくみんな、森の、山の、生き物の匂いを嗅いでいたと思います。
それも、明らかに人だけではない「世界のなかの私たち」の匂い。
森の中から絵美さんのトンコリとウポポが聞こえてきたら、その音に誘われて行って、きっと恋をするでしょう。
その音の本来の場所の生きている匂い。
それが現代の都市で生きる絵美さんから、東京のコンクリートで固められた地下の一室から感じられたことが、驚き、畏れおおいことだと思いました。

2009/10/10

あかるい処、みらいの百姓 / after the storm



カタチとはナニカ?
カタチへのこだわりは、習慣をうみ、安心をさそう
やがてヒトはココロをどこかにおきわすれ
おきわすれられたココロは、死んだのではなく
カタチへの執着にまきこまれ、ただ眠っているだけ
眼をさましてみたら、カタチは変幻自在のイノチとあそぶ

カタチのない音楽をつくってきた
床絵美が歌う アイヌの唄
これは 削ぎおとすだけそぎ落とされた 極限のカタチか?
Riwkakantの音楽とは カタチのないカタチの楽音
際と際が出会うからこそ 宇宙がうまれる

若い頃 きいてきたロック音楽 etc
離れてしまったのは あまりにも形式的すぎたから
安心とは ある日 とつじょ息苦しさをかんじるもの 牢獄の音楽たちよ
やんちゃなイノチがうごきはじめたら
うんと旅にでようか 
 ウン
あ 不安定な旅
まるで風のきまぐれ・・・

2009/10/09

孤独な散歩者の夢想 / morningscape


a film & music by Takeshi Kainuma


今日10月9日はユタの命日で、彼が僕の眼の前で車にはねられ、逝き、もう3年が過ぎた。

この、「morningscape -孤独な散歩者の夢想-」というタイトルがつけられた作品が生まれたのは、床絵美(敬称略)と、「Riwkakant リウカカント」というユニットを結成してまだ間もない頃だったか、アイヌの唄に編曲を施すという途轍もない緊張を日々強いられたその作業の合間に、ふと、窓の向こうに広がる初夏の瑞々しいグリーンと、見え隠れする細い山道に眼をやった瞬間、「ああ、ユタとよく散歩したよな、あの道・・・」と、そんな想いが高ぶった神経の内部からポッと膨らんだ瞬間、一気呵成に仕上げてしまったものです。

しばらくして、その音楽を使い動画を作った。一切の説明を排した。このブログにもアップしてましたが、少し間をおき(1年ほどか?)、再編集してみた。どこかが納得いかなかったというより、僕はもうそろそろ何かを手放すときだとつよく感じたからだ。

音楽に、耳を澄ませてほしい。
映像が余計だと感じる方は、その眼を瞑り、聴いてほしい。
この曲は、言葉にならない、声にもならない、僕のもうひとつの唄なのです。

2009/10/02

色の動機 / nothing compares to you

ああ、風邪をひいてしまった。
そして朝から雨・・・。現場はまたもや中止、もう秋なんだな、カミさん手製の鍋焼きうどんを昼食に、ああ僕は、いつも身体の具合が芳しくないときにも食欲だけはある、でもまったく太らない、なぜだ?つまり交通誘導はさ、“天使のシゴト”なんだなと、昨夜、熱にうなされた頭の内にコトバは浮かび、この仕事をはじめてからまだ2ヵ月半ぐらいしか経っていなにのに、否、経っていないから、風邪ばかりひいている、この十数年間、1度も風邪をひいたこと無いのに、Aaa...この世は寒いって、冗談を綴るのもこのぐらいにして、今さっきちょっと写真の整理中にインターネットを閲覧していたら思わぬ人、懐かしいPVと再会したんで、今日は暇つぶし、病気つぶしにその方々を紹介---。
おふたりとも、僕がまだ20代後半、そう20年前に登場した女性シンガーです。皆さんご存知かな?まだ産まれてませんでした?
僕はこのブログにおいて、たまにワケワカランダロウPV、自作の音楽のための動画をご紹介させてもらっていますが、僕のベースなんぞは非常に分かりやすいというか、まあ、下記のような歌を聴いてきたんですね。
久方ぶりにシンニード・オコーナーとトレイシー・チャップマンの歌声を聴きました、20年ぶり、こんな秋雨の日には・・・うっとりする。



Sinead O´Connor - Nothing compares to you



Tracy Chapman - Baby Can I Hold You