青空がたっぷり注ぎ込まれた杯を一気に飲み干せば、僕らの身体はダイナミックに天空へと拡散し、あの、果テ無シ、の、“瞬きの庭”まで、よ。
(ああ、距離ってのはしょせんイツワリだったんだな)
初まりも、終わりも無い、瞬時に変容する色彩の魅力、光景の、大海原へと僕らは生をうっちゃり委ね切るのさ。
音楽とは、形式ではない。呼吸なんだね。
なんて、音楽をコトバによって表現してはいけないはず。音楽は、ほら、そこに在る。どこにでも在る。
音楽を作る「意味」というものはない。真実は、まるで深い谷間の洞窟の奥のまた奥に豪奢に佇む(?)水晶のようにニンゲンの脳にひびく形式など持たない。
西洋世界が、これまで「音楽」として認めてきたその聴覚構造による認知は、なんとみすぼらしい事か。その幅たるや・・・。
現場監督アングロサクソンは、虫たちの、たとえば鈴虫の音に「唄」を、サウンドを感じ取る聴感、風雅なし。(ほんとだよ)。
僕らは、カザルスの無伴奏チェロや、スメタナ弦楽四重奏団の演奏を深く味わうことができるし、蛙の鳴き声や芋虫の寝転がる微かなサウンドなんかにも痺れてしまい、そのセクシーな響きの存在感に「唄」を読むマナザシ、聴感を育んで来たんだ。
わが国はほぼアメちゃんの属国となってしまったけれど、そんな事は知ったこちゃないって感じで、西洋のあらゆる文物を愉しんで、ハーゲンダッツにも歓喜し、トコロテンに涙する日本特有の美学、美感というものは、まだ捨ててはおらぬさ。あらゆる「物」、気配やうなじや大麻(おおあさ)など味わってきたし、めでて来たが、僕らはこれまでどおり自然の音に「音楽」を感覚しつづけることだろう。季節の移り変わりを「読む」ことの歓びを捨ててしまうことは無いさ。
モナリザの微笑みにうっとりし、さらに風情の異なる弥勒菩薩のマナザシに戦慄するというこの「心」を母体とした知覚、五感はかなり贅沢な代物なんだね。(そこのアンタ、わかってんの?)
などと、のらりくらり語りつつ、今夜の未完成楽曲、皆さんの聴感にはどのように響くのでしょうか?いやいや、それぞれの“瞬きの庭”まで、いざなうことのお手伝いができればいいな。
2 件のコメント:
わかってんの?
と聴かれたら
わかってるよと応えたいですが。
自分が知ってることのほかは
答えられないですな。
合うって難しい。
時間あわせてねって云われてもさ・・・。
境界線と交差しつつ生きる人々がいた。
今はどうでしょ。
あーしろこーしてあぶないよ!
自分も年とったさ。
テレビという装置。ライブと言う装置。
安全の確保。保険。
たしかなのは。いきるかてを手に入れること。そのために退化してるってかー。
先人を知り納得してしまえば、これ以上何を言えるんだろうなんてヒカエテヒカエテしてしまう。ただ、人間時間を貪れば、賭金を上げ続けていくしかないでしょうね。それをどこで実体化するか。自分が死ぬときと思い詰める風潮もありますが、命の対価を高める効果はありますが、消滅するという実体がコンタクトするという発想はイカンや。
境界線の往還というテーマで疎通できれば。
それじゃダメだぜ。といってみて、馬鹿にさせたら、俺噛付く。楽しいなあ!
匿名さん
はじまして。以前にも2件ほどコメントをくださりましたよね。
「匿名」のコメントは基本的に控えさせてもらっているので、今回は例外ね。
所々、文脈がワープし、崩れておりますが、これは意識的に工作、成したものではありませんね。まあ、「コメント文」だからね、精密に表現を、とは言いません。でも、実名を名乗って書くと、文章表現が変わりますので、次回は、ぜひ実名で。感覚している事がね、非常に興味深いというか、壊れた感じがいいです。でも、今度また「匿名コメント」でしたら削除しまーす。
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