2024/08/29

写真集のメイキングレポート⑦

写真は撮影がすべて。
撮影は、一瞬にして永遠を捕まえる身心脱落へのアプローチのひとつ。またはブレイクスルーのための遊び。
この意味づけは、人によっては失笑ですが、この意識的な実践は、撮影者に眩いばかりの世界が開示する瞬間を与えてくれます。なのでひとつの撮影作法として有効な考え方なのです。

……と書き出して、「んー、でもどうなんだろうなぁ」と思う。
今回、僕の思い付きによって写真集の制作プロジェクト、というほど大袈裟なものではないが、友人(僕側の友人はめちゃ少ない)、ほぼカミさんの友人たちを巻き込んで、というと聞き捨てならないが、ご協力とご支援をいただき、こうして写真集編集作業の過程を、たまに写真をアップしていただけのこのブログ、文章を書くのが嫌になりずーっとご無沙汰していたにも関わらず、謝意の気持ちから再び書き始め、でもここに来て、なんか文体というか文章が「よそ行きっぽい」感じが。ちょっと間違えたら、まるで政治家の街頭演説「皆様のご支援あってのわたくしではありますが、この度は……。」
ただ、写真について、自分がその時々にどんな思いを持って撮影していたのか、以前は自分の胸に閉まっておけば良い派だったのが、なぜか不思議なほど自然に崩れだし、制作時の思いや写真や芸術に対する思いについては書けない、書けるんだったらそもそも音楽や写真なんかやらんでしょ!が、「あらあら?けっこー書けるもんだね」と、これも友人たちのご厚意により機会を与えられ〈場〉が生まれたからこそ。

と、つらつら書いてますが、ただこの〈写真集のメイキングレポート〉の言葉には嘘も誇張もありません。人によっては、ちょっとその視点どーなの?ってのは多々あるかも知れないけど、言葉や文章ってのはそもそもそー言うものだから、もう暫くお付き合いください。


2024/08/27

写真集のメイキングレポート⑥

 

神話に登場する怒りっぽくて嫉妬深い(ニンゲンが想像創作したニンゲン臭い)神ではなくて、破壊や攻撃性とは無縁な、ちょっと僕たちには想像できない完全無欠、非対象であり、崇高に崇高を重ね重ね、それで支配することも知らず、ただただ愛することだけを本然とする〈神〉が、もし突如眼前に現れ「愛してる」なんて告白されたらどうなんだろう?

たぶん僕はその瞬間今まで味わったことのないような羞恥にかられ、居ても立っても居られなくなり、途方もない恐ろしさに駆られその場から一目散に逃げ出してしまうことだろう。
そんな姿が、いま、見える。 

この世界とは、〈神〉から逃れるために心によって作り出された妄想、夢物語であると言う説もあるが、確かにお釈迦さまもこの世はマーヤ、幻想であると仰った。

この視座、モノの見方は大変気になる。
この視座を可能にした場所、境地が一体何処にあり、またどうやってそこに立てるのか、が。

いずれにせよ呼び名は何でも良いのだ。〈神〉、神の愛とは、もうこれ以上言語表現が不可能な無記、時間や空間によって決して変化することのない完璧な愛の謂いだ。

人間がこの世で最も恐れているのは実はこの愛なのだ。と、そんな仮説を立ててみた。

いやいや、神の愛などという大仰な言葉を持ち出す必要もない。
実は昨年8月、人生初の強鬱状態に陥った時のことだ。僕は生まれて初めてまるまる1ヶ月!離職していた。(おヒモ時代もあったがそれについてはまた。)
で、その休職中に、長野に住むミュージシャン、今は自然農法で米を作っている友人に会いに行った。久方ぶりに会った友人が淹れた美味しい珈琲を飲みながら、互いの近況報告や昔話しに花を咲かせていたら、突然、何かが動き始め、空間は真っ白になり、彼から途方もない愛が僕に向かって放たれた。その瞬間、僕はその愛の壮大さに怯み、たじろぎ、ひどく動揺し、咄嗟に身構え、自分という意識の輪郭がグニャグニャと溶け出してしまうことへの恐怖を感じた。

人でも神でも良い、真実の、どストライクの愛を丸ごと受け取るということは、日常の生活で当たり前のように慣れ親しんだ時間と空間が溶け始め、ファナー فناءの大海原に飛び込んでしまうことなのだ。つまりこの自我(ego)を完全に放棄、手放す瞬間でもある。それはある意味自分の内なる祭壇に気づく一瞬かも知れないが、自他の区別を崩壊させる愛の源泉を怯むことなく「観る」瞬間だったのだろう。
後日、僕は友人からそんなことを教えてもらったことに気がついた。

撮影している時は、恥ずかしながらいつも愛と歓びの只中にいるのに、その長野の安曇野での彼との会話中に起こった体験が引き金となり、僕は柄にもなく愛について深く考えるようになった。

そして愛は、やがて感謝する心へと導く。
感謝とは、愛と同様、「傷つきたく無い」という恐れと防衛の感情によって張り巡らされた心の周りを取り囲む大小様々の分厚い壁を溶解せさる。
なぜ? 
心本来の姿である心の自由自在性を蘇らせるためにだ。



2024/08/25

写真集のメイキングレポート⑤


 ~写真家の写真集とは、写真を使った言葉のない著作~
 

コマーシャルフォトグラファーと写真家の写真の違い、その立ち位置の違いについて説明します。

コマーシャルフォトグラファーは被写体を「どう見せるか?」に比重を置きます。これは、クライアントの要望やその写真がどんな媒体に使用されるのかを意識する必要があるからです。これは当然、撮影者の主体的な「これを撮りたい」という情動、根底的な初動が抑え込まれます。
では、写真家の撮影の流儀とは?
彼らはもっと原始的、本能的に世界に触れようとします。そして、「私は見た」を起点にし、次なる「見る」へと繋げてゆきます。つまり、その「見た」を軸として、どこまでも「見る」を深めてゆこうとするのです。
これが写真家の基本姿勢なので、コマーシャルフォトグラファーの眼や意識とは、その背景そのものが似て非なるもの。ただ、コマーシャルフォトグラファーの撮影は失敗が許されない、待ったなしの独特な緊張感の中で進行します。それに比べ写真家は「今日は上手く撮れなかったから、まぁ、明日また撮りに来れば良い」。
 

" 君には世界がどう見えるんだい? "
 

「見た」「見た」「見た」を重ねてゆく。
写真家の写真集には彼らの生存の証のようなもの、彼または彼女の考え、思想のようなもの、流行を無視した独自の美意識、生き様、その足跡などが入り込んでいます。そしてやがて、この世界とは?この現象界とは?被写体とは?自分とは?観るとは?撮影するとは?関係性とは?そんな事を考えるようになります。

そして「光」とは?
 

" なぜ世界がそんな風に見えるのか君は知っているのかな? "
 

できれば、自分が与えた命題への現時点でのささやかな回答が、今回皆さんとの関係、ご協力の元で生み出される写真集の内に含まれていることを望みます。

2024/08/21

写真集のメイキングレポート④

 写真集のテーマに沿って写真を選別した後の工程は、その厳選された写真の組み合わせとページ順を決めてゆく作業に入ります。ここがもっとも気を使うところです。

見開きで、左右の写真をどんな組み合わせにするのか。2つの写像が響き合い、ちょっと不思議な効果がもたらされるからです。物理的な視覚を超えた、違う感覚への開示にも繋がるような気もします。それはたぶん写真集と言う形態が持ち得る「行間」の意識的な構築なのです。

もちろん左右の写真を無造作に並べ、ばんばんページを展開させるという偶然性を重んじた見せ方もあるし、また、私的なストーリーを紡いだドキュメント色の強い構成の仕方もあります。コンセプチュアルアートのようなテイスト、無作為性を徹底して商品カタログに近い見せ方もあります。

しかし今回は、その全てをちょっとづつ網羅しながら、そのどれにも収まらない響きを放つ写真集になればと思っています。



2024/08/19

写真集のメイキングレポート③

「美」とは何だろう?
「美」とは、何処にあるのか?

外界のあるモノと、視覚や聴覚、触覚や味覚を通して出会い、なぜ美しさや歓びを感じ、その際一瞬にしてこの身体のことを忘れてしまうのか。
その時、何が起こっているのか?

「美」は、外なる対象を契機にして、心という広大な舞台上で起こる。
だが「美」を感じる、体験するとは、心の舞台上に意識の光、スポットライトが当たっている時だけ。
もちろん「美しい」と感じる対象には、時代や環境により後天的に刷り込まれ、教育されたものも多分にあるが、そんな移りゆく美しさなど放っておけば良い。

そして「美」は、どこからやって来るのだろう。一体誰からの贈り物なのか。そして意識とは? 

瞬間即永遠という言葉はよく聞く。それは現在の中に過去も未来もあると言う覚者の開示だが、「美」とは、たぶんこの瞬間即永遠への誘いであり、過去からも、未来からも、そして死や身体からも自由である、この意識の向こう側の世界を無意識裡にチラッと思い起こさせてくれる贈り物なのかも知れない。

美を感じる瞬間、人はその美的体験の只中で、実は「あなたは美しい」というこの世の果ての声を聞いている。

そんな写真集になれば、と。

 


 

2024/08/17

写真集のメイキングレポート②

 


 ~写真集の編集プロセス~

まずテーマを決めます。と言っても、これは2ヶ月ほど前、写真集の構想が突如僕の内で閃いたその瞬間に決まってました。


1冊目は横位置だけの風景写真。

タイトルは『廻向』。テーマは〈移動〉もしくは〈この世の旅の終わり〉。


2冊目は縦位置と正方形、ブローニーの写真だけで纏めること。

テーマは〈美と光〉。タイトルは『奇蹟』。ふつーは「奇跡」跡の方を使いますが「蹟」。これは若い頃に熟読した中上健次の小説タイトルがヒント。サブタイトルとし「Lumière(リュミエール)」フランス語で光の意。そもそも写真の始まりは1825年にニセフォール・ニエプスが成し遂げたもので、密か彼に敬意を表して。


横位置の写真と縦位置、そして正方形の写真とではそれぞれ趣きや視覚的な印象が変わり、これは見る側の心にまで作用します。


写真集のテーマ、主題をタイトルにより明確にしておくことの利点は、その言葉の標識によって脇見への誘惑が抑制されるから。

もちろん写真集のテーマ、主題とは、そもそも僕の生のテーマなので、すでに撮影された写真の中に含まれていますが、膨大な写真の中から写真集の主題と的確に響き合う写真のみをグイグイ選別する助けとなってくれます。


写真を撮り出してまだ間もない頃に、僕が影響を受けた写真家は皆、被写体との出会いを求め、ひたすらに歩き続けた散歩の達人たち。僕もそれを真似、気がつけばそれが自分の主の撮影スタイルになっていました。

そして30年以上撮り続けて、その果ての果て、そこで出会ったモノ、そこで感じたこと、さらに教えてもらったこと、この2冊の写真集には、初期中期の頃の写真は一切出てきません。15年ほど前から現在に至るまでのこの15年間に撮られた写真だけで纏めます。


2024.8.17

 

 

 

 

 

写真集のメイキングレポート①

 今朝は何やら頭の中で「♪時を超えて君を愛せるか?本当に君を守れるか?」という小田和正の歌声がリフレーンしている。

時を超えて君を愛せるか?

真実の愛とか、永遠の愛とか、言葉で書くのも言うのも簡単だけれど、じゃあ、その真実の、永遠の愛とやらに遭遇してしまい、それが実存していることを知ってしまったらどうなる?

この知、この愛との出会いはたぶん凄まじい衝撃で、もしそれを体験したなら、今までの人間種、時間と空間を必要とし、またその奇怪な法則に大いに縛られたホモ・サピエンスではもういられなくなるだろう。

小田さんの『たしかなこと』という歌が引き金となり、今朝は、台風の到来と共に、そんなことを考えていた。

2024.8.16