2024/08/27

写真集のメイキングレポート⑥

 

神話に登場する怒りっぽくて嫉妬深い(ニンゲンが想像創作したニンゲン臭い)神ではなくて、破壊や攻撃性とは無縁な、ちょっと僕たちには想像できない完全無欠、非対象であり、崇高に崇高を重ね重ね、それで支配することも知らず、ただただ愛することだけを本然とする〈神〉が、もし突如眼前に現れ「愛してる」なんて告白されたらどうなんだろう?

たぶん僕はその瞬間今まで味わったことのないような羞恥にかられ、居ても立っても居られなくなり、途方もない恐ろしさに駆られその場から一目散に逃げ出してしまうことだろう。
そんな姿が、いま、見える。 

この世界とは、〈神〉から逃れるために心によって作り出された妄想、夢物語であると言う説もあるが、確かにお釈迦さまもこの世はマーヤ、幻想であると仰った。

この視座、モノの見方は大変気になる。
この視座を可能にした場所、境地が一体何処にあり、またどうやってそこに立てるのか、が。

いずれにせよ呼び名は何でも良いのだ。〈神〉、神の愛とは、もうこれ以上言語表現が不可能な無記、時間や空間によって決して変化することのない完璧な愛の謂いだ。

人間がこの世で最も恐れているのは実はこの愛なのだ。と、そんな仮説を立ててみた。

いやいや、神の愛などという大仰な言葉を持ち出す必要もない。
実は昨年8月、人生初の強鬱状態に陥った時のことだ。僕は生まれて初めてまるまる1ヶ月!離職していた。(おヒモ時代もあったがそれについてはまた。)
で、その休職中に、長野に住むミュージシャン、今は自然農法で米を作っている友人に会いに行った。久方ぶりに会った友人が淹れた美味しい珈琲を飲みながら、互いの近況報告や昔話しに花を咲かせていたら、突然、何かが動き始め、空間は真っ白になり、彼から途方もない愛が僕に向かって放たれた。その瞬間、僕はその愛の壮大さに怯み、たじろぎ、ひどく動揺し、咄嗟に身構え、自分という意識の輪郭がグニャグニャと溶け出してしまうことへの恐怖を感じた。

人でも神でも良い、真実の、どストライクの愛を丸ごと受け取るということは、日常の生活で当たり前のように慣れ親しんだ時間と空間が溶け始め、ファナー فناءの大海原に飛び込んでしまうことなのだ。つまりこの自我(ego)を完全に放棄、手放す瞬間でもある。それはある意味自分の内なる祭壇に気づく一瞬かも知れないが、自他の区別を崩壊させる愛の源泉を怯むことなく「観る」瞬間だったのだろう。
後日、僕は友人からそんなことを教えてもらったことに気がついた。

撮影している時は、恥ずかしながらいつも愛と歓びの只中にいるのに、その長野の安曇野での彼との会話中に起こった体験が引き金となり、僕は柄にもなく愛について深く考えるようになった。

そして愛は、やがて感謝する心へと導く。
感謝とは、愛と同様、「傷つきたく無い」という恐れと防衛の感情によって張り巡らされた心の周りを取り囲む大小様々の分厚い壁を溶解せさる。
なぜ? 
心本来の姿である心の自由自在性を蘇らせるためにだ。



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