photo by Emi Kumagai
この『Riwkakant(リウカカント)』のブログ、僕は写真家でもありますから、他のフォトグラファーの写真はほぼ<info>で已む無く載せる以外、アップしたことはありません。動画の方は、音楽を聴いていただく事を目的としていますので、時おり、YouTubeをご紹介させてもらっていますが、他の写真家の「写真」はまったく紹介したことがないのですね。つまり、このお気楽語記楽ブログでさえ、僕の眼や耳、総合的知覚?)美学、美意識なんてもんがばっちり働いているわけであります。(あ、前置き長いね)
今回アップさせていただいた「写真」は、僕が撮影したものではありません。
数年前に知り合ったフォトグラファー・熊谷絵美(敬称略)の「写真」、彼女がふっと赴いてしまった場処(刑)、です。
この「写真」と出会ったのは、確か2年前の1月、彼女からの年賀状、写真は、そこに在った。その場処、風景は・・・。
そして、このブログのラベル「八人の王が眠りに就く処」は、そのたった1枚の写真がヒントとなり、僕の内で、黙々と準備され、開始された写真シリーズだったのです。
いわゆる「写真家」としての才能とか個性? そんなもん僕は知らない。見たこともない。彼女が赴いてしまった場処は、そんな「才能」だの「個性」という人間界のお伽噺を無化してしまう処だったということを、皆さんには感じ取れるだろうか。
たぶん、此処で、彼女はその背筋をのばし、あまりにも無防備な状態で、名前をうしない、国籍をおとし、木々や空や草たちがそうであるように、なによりも無垢な「存在」、その一部として、ただ胸の内にてコウベを垂れていたに違いない。
祈りとは何か?
…切なさ。だがこの切なさの裏面には、ただならぬ鳥たちの「自由」が、「愛」がみなぎっている。
現代写真・現代アート、それは言葉のアヤ、泡だ。
写真とは、「写真」とは、ただ“存在”へ迫るための鏡として在る。写真史という時間軸上の言葉の羅列にもし未来があるとするなら、もうそこにしか「見るべきこと」は無いだろう。