2025/02/28

dear#3 徒然なるままに


 

心の完璧さ、実在の完璧さとは、個人的なものではなく全的なものであるから(全的なものでなければ完璧とは呼べないので)、全ての人間、あらゆる存在が完璧であると言えます。

つまり、解脱者や覚者と呼ばれている人たちの悟りや目覚めとは、決して個人的なものではなく、私たちの悟りであり目覚めでもあると、こう解釈することが出来るのです。また、このように理解しなければ悟りや目覚め、光明を得るとは個人的な幻想、もしくはある選ばれた人たちに与えられた特権的な夢に堕します。
これについて深く考え、悟りや目覚めとは個人的なものではなく全的なものであると、この視点から歩み出すことは、やがてある壮大な結論に導かれるような気がします。

僕の内側から溢れ出す音楽
この世界という不安定な夢の舞台で
僕を通して表れる音楽
それがどこへ向かうのか
夢の合間を縫って
知覚の向こう側からやって来て
なぜここに
現れたのか
溢れ出す音楽
跡形もなく消えゆく世界
たぶん知る必要もない

「身体=自分」
この思いの構図が
自分とは一個の肉体に過ぎない
この考えが
無数の個々の〈自分=イメージ〉を生み出し
その根深い執拗な信念から解放された瞬間
人は 心がひとつであることを
……観る。

世界中を彷徨い
探して 探して
その探し求めていたものが
〈自分自身〉であったと気づく時
旅は終わり
海は歓び
この手は空につき
無白となった大地は瞬き
流れる樹と葺く水の鼓動は弾け
川の頂から心の尾根伝い
時間も空間も消滅し
闇は垂直に割れ
空っぽの心はただ〈今〉に座り 
0を知らない1の訪れ
探し求めていた
それはすでにここに在ったことを
知る。

dear#31996年作
 
 

 

2025/02/27

来迎 if


 

冬眠暁を忘るる

処処啼鳥は出づ

夜来風雨の理

何時ぞ来るらむ

花咲ける頃


この世界の人間の(一時的な生存における)究極の目的とは、心の自由だと思います。

この自由とは、物理的に満たされた環境、悠々自適な暮らしを手にすることではなく、時間と空間の法則に巻き込まれ、「一人の人間とは個別意識を持った一時的存在である」という通常の自己認識からの脱却を意味しますが、自分の肉体をその為の手段とすること、五感も、意識も、心の自由という目的に仕えること、そしてこの現象世界、宇宙そのものが心の全的な解放のための、すでに心が自由自在である事を再発見するための〈夢の舞台〉と見做すこと。

この地球上での生活の内で、人間が成し得るこれ以上の挑戦と冒険はないと思います。


憑かれてゐるのだ、俺は。蒼空、蒼空、蒼空、蒼空。(ステファヌ・マラルメ)


死とはなにか?

生死を超えた「生命」に礼拝するための通過点としての、この世界における死。


〈空〉のように澄み切った、境界のない自由な心に、一体誰が、何が、攻撃できるのか?

〈空〉とは、怒りや悲しみとは無縁であり、そこに本然の自分である「唯一の我」が舞い降りて、これを自得する瞬間の前触れ。


if (2020年作)

 


2025/02/24

lifeline 精神


 

作曲中の音楽家は、外界の音、環境音を遮断し、自分が作り出そうとする楽曲の中へと入り込みます。これは音楽の中に積極的に閉じ籠る、ということですが、外から唐突にやって来る見知らぬ音や気まぐれな環境音に対してはかなり過敏となり、神経質な状態に陥ります。

楽音のフィールドへ、他所の音や見知らぬ響きが訪れても、ニヤニヤしながら開かれた状態で音楽の制作を続けることの出来る音楽家は稀です。

音符やMIDI(ミュージカル・インストゥルメント・デジタル・インターフェース)などによって描かれた、または楽器が奏でる無数の音たちよって構成され、時間という土台の上に立つ建造物としての音楽、または壮大な森を彷彿させる音響の世界、川べりの倹しいあばら屋のような音楽……

脳機能と聴覚の連動によって生まれ、解釈され、見出され、眼に見えない空間のような場所に置かれる音楽家の作品とは何だろう?

音楽を知らない犬や猫の傍で、自分が作り出す音楽の精度を上げることに没頭し、ついついその時空間に囚われ、知らず知らずのうちに心の身動きまでが限定されてゆく音楽家は多い。(それはやむを得ない、音楽家の通過点)


風鈴の音は、風を可視化する。

教会の鐘の音は、この世界がすでに祝福されていることを知らせる。


「客観性があなたの中で異常に発展すると、外部の事物をじっと眺める時、あなたは自己の存在を忘れ、外部の事物と混ざり合うようになる。」(シャルル・ボードレール)


闇の中に置かれた植物は、どんな小さな光でさえも、その訪れに対しては敏感で、さっと光の方を振り向く。(植物にも眼がある?)

同様に、闇に魅せられた音の探求者たちも、もしなんらかの恩寵により光が射し込むなら、多分思わずそちらを振り向くことだろう。なぜか?闇に居続けることはひどく消耗し、やがて眼も耳も効かなくなることを知っているからだ。これは、人間の心の中核に宿る「自然」の声、囁き。

では、音にも眼はあるのか?

眼の付いた音楽。

何を視ているのか?

誰を、探しているのか?

闇の中にとどまり(何か隠しておきたいものがあるから)、自分は光の音を放つのだ、闇の中でこそ光は強調されるだろうと考えるミュージシャンも少なからずいる。

だが、もしその心が闇に囚われ、自分自身の秘密を恐れ、もしくは暗闇に魅了されているうちは、光の音を放つことは不可能だ。

光る音。

音の光彩。

光をヴィジュアライズするのではなく、眼を瞑り、音の光を感じ取ること。

光に魅せられた音楽。

光を見詰める音楽。


既存の宗教が絵画や言葉によって人間たちを誘惑し、彼らが作り出したイメージや概念を脇に置き、〈神〉という言葉が指示する朧気な場所に意識を向けること。

〈神〉という言葉が意味する、無際限、唯一性、絶対的な愛へと、一心に思いを凝らし、「自分の内」へと入ってゆくこと。


自我意識によって作り出された個人の夢や死は、自我意識の始まり、その土台を明らかにすることにより自ずと消滅する。 


lifeline2020年作)

 

 


 

2025/02/23

橋のない欄干 music is


 

現象の世界はしばし人間に本来的に備わっているであろう絶対的な自由への自覚を抑止する働きをしますが、芸術行為、芸術表現、アートというジャンルに特別な意味や価値が生まれるのは、人間の全的な自由を想起するために機能しようとする瞬間だけです


アートとは、究極的にはこの現象世界が無であることを告げますが、人間は個々の身体を持ったという夢を見ている心でありながら、その本質は神(真善美)の一部であることも告知します。


録音された音楽は、ただ一回限りのライブ、コンサートでの体験とは異なり、何度でも再生可能です。リスナーの主体性によってその都度蘇り、絶えず新たな気持ちでその音楽を目撃することを可能にします。

まるで自然界の四季折々の変化や、世界の表層上の移り変わり、時の流れというものを無視するかのように……

録音物による音楽鑑賞もまた、もう一つの時間の入り口となり、五感を超えた世界を垣間見せ、真の自己との出会いに繋がる予感を表出することが可能であると、これまで音楽を作って来ましたが、それは多分あらゆる音楽家たちに与えられた夢なのです。


内なる閃光 music is1994年作

 

 


 

2025/02/20

Spiritual Noise#03 ポテンシャル


 

無闇に細分化した音楽ジャンルの中にはノイズミュージック (Noise music)と分類されたものがあります。

ノイズ音楽とは、一般的にはあまり知られておらず、またそれに興味を持ち聴いてみようとする人たちも多くはないと思いますが、ちなみにウィキペディアで〈ノイズミュージック〉と検索すると、「いわゆる音楽的常識からは音楽と見なされないものを演奏または録音し、楽曲を構成していく音楽」と、こう書かれています。さらに、ノイズ音楽の起源としてイタリア未来派芸術家ルイージ・ルッソロの論文『騒音芸術(L'arte dei rumori1913年』を取り上げ、「私たちは楽音(sound)というかぎられた範囲を打ち破らればならない。そして、無限の多様性を有するような楽音としての騒音(noise-sound)を獲得せねばならない (AN,25)」などと、幾つかの言葉も紹介しています。

無限の多様性を有する音楽……。素敵な言い回しですね。もし、この世に無限の多様性を持つ食べ物があればついつい食べたくなるものです。


ただ、従来のノイズミュージックの欠点としては、往々にして奇抜さや攻撃性、通常(?)の音楽への即物的な否定の身振りや多分に破壊的なパフォーマンス、方法や様式の面ばかりが強調され、「なぜ、あなたはその音楽、響きを必要としたのか?」への明瞭な自覚を持った作品、楽曲がいまだ少ないことです。

過剰な自意識の吐け口として「音楽」を利用しているだけのミュージシャンもいますし、その演奏内容、楽曲の中身はほとんど無方向な代物です。

もちろん広義な意味においてノイズ全般、環境音や自然が放つ無数の音響は「方向性」など持ち得ないものですが、そのノイズ、雑多な音たちに人間の心が、聴感や知性が関与することにより、初めてヒカリの源泉、人間とこの世界の根源へと誘惑される楽音、またはこれを志向する「音楽」として再生する機会を得るのだと僕は確信しています。


たとえば、写真表現とは撮影者(写真家)がこの世界をどう見たのか?が問われ、その応答の記録ですが、どんなジャンルに限らず人間が作り出した「音楽」とは、作曲家または演奏家が、この世界から何を聴いたか?何が聞こえて来たのか?また何を救い出し、視てしまったのか?の研ぎ澄まされた報告だと思います。


p.s.

一時期流行ったミュージック・コンクレート(Musique Concrète)のように、録音された環境音を電気的に加工し、粉砕?する現代音楽のアプローチはちょっと傲慢だったような気がします。 


Spiritual Noise#031994年作

 

 


 

2025/02/19

究国 awakening with


 

~エンジニアリングについて~

 

他者の心から溢れ出し、3次元空間へと流れ込み、そこに時間が加わった4次元世界に音や響きの運動として現れた「音楽」に対して、どう向き合うかがエンジニアリングという作業には求められます。

これは、自分が作り出した音楽についても(僕は自分の楽曲を自らイコライジングしますので)同様ですが、他者が作り出す音楽は、「ここをもっとこうすればこのミュージシャンの音楽が持つ世界観は伝わりやすくなるのに」という楽曲そのものへの直接的な関与は御法度で、あくまでも録音された音楽を理解し、自分の内側へと流し込み、そこで得られた瞬きやヴィジョンなどを、彼らの音楽世界の想いのコアへ歩み寄り、こちらの感性や知性、技術などを同期させ、リスナーへどう繋げてゆけば作曲者や演奏者はもちろんのこと、適切に、明確に、皆が納得のゆくものとして、届けられるだろうか?と、そんなことばかりを考えます。(彼らが作り出した音楽という食べ物をどんなお皿に盛り付ければ最大限に生かせるか?ですね。)

ただ、他者の音楽作品ではなく、自分が作り出す音楽に関して言えば、エンジニアリング、マスタリングという作業も含めて、すべて自身の作曲行為の一部となります。

DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)による楽曲制作、そこから生み出される音楽世界とは、イコライジングも含め、そのすべてが創作行為なのです。

ゆえ、僕が作る音楽作品とは、あくまでもLRの2つのスピーカーから表れる音響世界、録音物としての「作品」であり、自作を人前で演奏することはありません。そんな生演奏をお見せできる技術もないので。(笑)


この「awakening with」(2020年作)という楽曲は、やや大袈裟に説明すると、すでに我々は目覚めているという気づきへ接触しようとする試みであり、またはこれについて言及した(ポップで分かりやすい)音楽作品だと思います。

 

 


2025/02/17

堀内幹の「カゼノチ」


 

この楽曲「カゼノチ」は、堀内幹のレパートリーの中では珍しくインストゥルメンタル音楽となります。

この作品で彼が使用した楽器は、アコースティック・ギターをサワリ付きフレッドレスに改良した彼自らの手によるオリジナル弦楽器ですが、彼はこの楽器を"無間棹"と命名しています。

どこか異国の響きを放つ民族楽器のようでもあり、調性を目指した西洋の楽器が切り捨ててきた掠れ音や奇妙な倍音、息切れの音や摩擦音、濁音など、いわゆるノイズと呼ばれている音や響きを積極的に取り返そうとしているかのようです。


これまでこのブログで堀内幹の歌、その歌詞が描く世界像について僕が感じたことを書いてきましたので、西洋のアコースティック・ギターだけでは表せない音や響きを強く求めた彼の指向性、その聴感の質や幅については言わずもがな。


ちなみにこの「カゼノチ」は、スタジオでの1発録りですが、アイヌの歌い手・床絵美がコーラスとして参加しています。曲の始まりと終わりの方にNYでフィールドレコーディングされた環境音が入っていますが、それ以外はすべて彼が弾く1本の無間棹と彼の声のみで構成され、出現した音響世界です。

 

堀内幹『one』リマスター 

 

(このブログ内の堀内幹ラベル

 

2025/02/16

堀内幹の「借りものの歌」


 

堀内幹の「借りものの歌」というタイトルが付された歌詞の世界へどのように近づいて行くべきか、いや、僕はすでにその世界を訪ね、その静かな森の奥で多くの時間を過ごしてきましたから、多分どんな言葉から切り出せば文意が整ってくれるのか思案していたのだと思います。

すると、ふと、"無垢"という言葉が浮かんできました。続いて、ウィリアム・ブレイクの詩集『無垢の歌 Songs of Innocence 』の" Piping down the valleys wild(羊飼いは笛を吹きながら荒野を降り)"という詩がイメージを連れ響いてきたのです。


神さまと

同じ色さ

遠ざかる

風の中で


彼は「神」という言葉を自身の歌の中で使うことを酷く警戒する人間だと思いますが、この「借りものの歌」ではいきなり「神さま」と記します。そして直ぐにそれは「(自分たちも神と)同じ色さ」と明かす。

さらに神さまと同じ色であることを告げた、教えてくれたあの「風」はもう遠ざかってしまうのか?と自問します。


借り物の

歌を歌い

皆と同じ

空を見てる


シンカソングライターである堀内幹は作詞作曲演奏と、全て自分1人で熟しますが、全曲オリジナル・ソングであるにもかかわらず、ここで「借りものの歌」、自分が歌っている、自分が作った歌も借りものの歌だよと、まるで囁いているかのようです。

たとえば、ある民族が口頭伝承により伝え残してきた民族の歌とは作者不詳であり、個人の歌ではなく受け継がれた歌ですが、この歌たちは「皆と同じ」空を見せるよ、と。


森の奥で

繰り返し

回ってる

回ってる


一体、森の奥で何が回っているのか?

彼はそれを見詰めながら、決して言葉では明言しません。

なぜなら、それは眼には見えない「*」であり、言葉にすると逃げ去ってしまうから。

此処に、民族の意匠をもう必要としない堀内幹がこちらを見て笑いかけています。


借り物の

歌でいい

何も違わぬ

ひとつも違わぬ


長い間、ひとり歌を作り続け歌ってきた者が、遂には自分の歌さえも借りものであると、何か個人的な荷を手放そうとします。

そして「羊飼いは笛を吹きながら荒野を降り」、歌を記し、荒野に放ち、やがてあの澄み切った神が住む空の元へと還る。


Piping down the valleys wild

Piping songs of pleasant glee

On a cloud I saw a child

And he laughing said to me.


この世界は、民族の歌、民族言語、歌唱法など、その歌が生まれたベースである生活様式を捨て、「歌の源」から遠ざかり、忘れ去ることを選んで来ました。

無数の個人的な歌が混沌と渦巻く現代社会の表層的な暮らしの中で、堀内幹はきっとこう言うことでしょう。

「それは私の中で失われた訳ではない。なぜならそれは私の内側で脈々と流れ、息づいているから」と。

この確信が、実は「借りものの歌」のコアであり、隠された軸になっているような気がします。


何も違わぬ

ひとつも違わぬ

 

2025/02/14

堀内幹の「コブシの花びら」


 

〜堀内幹の「コブシの花びら」について〜


この「コブシの花びら」という歌は、一見、バラードの風合いですが、日本の音楽では珍しい三拍子のリズム、スローテンポのワルツの拍子を持たせています。そこに堀内幹ならではの大らかさやユーモア、奥行きなどが表れています。


では、その歌詞、まず「月が消えたら」と始まります。

月が消える、この歌の舞台は夜であることを告げ、月明かりのない不吉な暗闇の中では通常の視覚は奪われますので、いわば盲いた状態。そこに彼はすぐさま明かりの代替として白いコブシの花を見せます

身体上の眼が効かなくなれば、コブシの花を知覚することなど叶いませんので、堀内幹が取り出したこのコブシの花とは、五感を超えた存在、もしくは意識または心を凝らさなければ見えてこない何か、ある神秘的な象徴であることが示唆されます。


月が消えたら

コブシの花びら

風を掴んで 飛んでゆく


「風」という言葉は、堀内幹の歌詞世界ではかなり使用頻度の高い言葉ですが、彼にとって「風」とは、異界と現界を繋ぐ役割を担ったガイド、精霊的な存在であるように思われます。


川の向こうで

揺れる帽子は

闇を泳ぐ 子供たち


月が消えた夜に見えた幻影なのか?

川、帽子、闇を泳がざるを得ない子供たちへの哀悼……


春待ち人は

コブシで消した

今日もずぶ濡れの微笑みを 


春を待つ人とは、寒い冬の中にいる人、その凍えた心を、コブシ(ヒカリ、温もり)で消すよ、と。

ずぶ濡れの悲しみではなく、これを微笑みとする。

月明かりが消えても、コブシの花をさっと差し出す彼の優しさによる視覚の変移、技量。別の見方、感じ方を示そうとする彼の心の機微。


流れた血の上

祈る背の上

コブシの花びら

舞い落ちる


流れた血、累々たる屍から流れる赤い血の上に、無念の死を遂げた者たち心の上に、または地に額をつけ祈る者たちの背の上にこそ、あのコブシの花びらは舞い落ちるのだ、という堀内幹の確信、願い。


月が消えたら

コブシの花びら

風を掴んで

飛んで行く


つまりこの「コブシの花びら」という歌は、ある種の鎮魂歌であり、コブシの花とは、月明かりのない真っ暗闇の世界で、肉体の眼が効かなくなったがゆえに心眼は開き、このもうひとつの「視」によって見出されたヒカリの花ではないのか。そしてその白い花びらは世界の嘆きの場所へ舞い落ち、ガイドである精霊的存在である「風を掴んで」、死者の魂を、彷徨える魂らを黄泉へと安らかに運ぶ、その「飛んで行く」情景を、泉鏡花や宮沢賢治とはまた違った幽玄性を持たせ、描いた歌であるように感じます。


p.s


あらたまって確かめたことはありませんが、幹ちゃんはあの太古の花を予感させるコブシの花が大好きなんだと思います。


2025/02/13

堀内幹の「祈り」


 〜堀内幹の「祈り」その歌詞について〜


この「祈り」という歌は、15年ほど前に発売された堀内幹のアルバム『one』に収録されていますが、今回(経緯を書くと長くなるので、)あらためてリマスターをし、制作当時は「野暮だよなぁ」と禁じていたその歌詞についての解説?をしたいと思います。


まず、この歌詞は


この大地に 手をつき

この大地に 頭をつけ 

身体を 私を あなたを

投げ出して



と、始まります。

この歌詞から連想されるイメージは、チベットの五体投地、信仰と大地への帰依の姿形ですね。

彼は10年ほど前に都会での暮らしを後にし、長野県へと引っ越し、農業従事者としての生活を始めましたが、彼はミュージシャンとしての活動を続けながら片手間に農業というスタイルは取れず、無農薬の米作りに全ての時間を注ぎ込むという徹底した態度で望んでいます。それは彼なりの五体投地であり、大地への回帰のための実践であるようにも映ります。


そして次に来る歌詞、


知らないことが

いつしか知らないことが

知っていることと

混ざり合って

降って来る 降って来る



ソクラテスの「無知の知」とは、簡単に言うなら、「自分は知らないということを知っている」ですが、では、何について自分は知らないのか?

 

山のように 積み重なって

空に昇り 雨になって 

降って来る 降って来る


たとえば、真理について、この世界の果てについて、この世界が存在する理由、意味や意図について、個人的な体験をともなった「知」を得、生きた者、生きている存在は覚者以外には居ませんよね。

つまり「自分はなにも知らない」とは、真理を予感した魂の聡明な表明ですが、その「知らないこと」が、「知っていること」、唯一自分がここに存在しているという意識、その個別意識に目がけて「真理(知らないこと)」が到来し、降って来る。混ざり合うとは、ある種の恩寵の喩えであり、啓示を彷彿させます。


そして、次の歌詞で、ここに堀内幹の優しさが表れるのですが、


ただ 息を 

少しだけ 深くすれば

いいんだ いいんだ



なぜなら、「自分は何でも知っている」という自負心を手放せない者たちにとって真理の到来とは苛烈な体験となるからです。


重なり合って 折れた身体

枯れた柳の枝が 揺れている

風がやって来た

届け 

届け 祈りよ



彼がその歌詞によって描く世界には、この「祈り」という歌だけではありませんが、しばし人間界の地獄絵図のイメージが描かれます。

たとえば、戦場に置かれた者たちが眼にするであろう光景「折れた身体が重なり合って」。事が終幕した後の無常空間「枯れた柳の枝が揺れている」。狂気の場所で渦巻く叫び声と諦念をともなった異様な沈黙、堀内幹は自らをそこに同化させつつ、その奥深いところから自身の「祈り」を露わにします。絶望感が揺らめく煉獄と化した大地、これを変容させる真理や本来の魂の姿とは何か?

(地獄の描写とは、現代の歌世界では異例なことですが、たとえばウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』さらに1472年に出版されたダンテの『神曲』、我が国では千年以上前に書かれた『往生要集』、もっと遡れば『ヨハネ黙示録』と、文学の世界、言葉による表現の世界ではさほど特殊なことではありませんよね。)


この「祈り」という録音芸術としての音楽作品は、堀内幹の声、彼が弾くギター、歌詞、メロディー、ビート等が重なり合ってはじめて成立する世界なので、殊更歌詞だけを引っ張り出して言及することはあまり本質的なことではありませんが、少しでも彼の歌、彼の音楽世界を味わう為のヒント、きっかけになればと思い、数十年の時を経て、ざっと書かせてもらいました。

    

2025/02/06

fillmore east フィルモア・イースト

 

 

先週の火曜日あたりに風邪を引き、思うように回復せず、今朝も起きるには起きたがリビングの炬燵の中でグズグズしていた。

なので近場の東京富士美術館へ、カミさんがタダ券を陶芸教室の仲間から貰っていた「愛しのマン・レイ」展を観に行った。

マン・レイと聞くと、高校生だった頃を思い出す。芸術とは無縁な若者に、最初にこのダダイズムの作家を紹介したのは2歳上の先輩だった。

彼は、当時の僕にとって、未知なる世界への水先案内人、彼が勧めるレコードや書物、アーチストは僕が取り組むべき最優先事項となった。

彼との出会いがなければ、僕はアートの道へは進まなかっただろう。いや、もしかしたら、彼との出会いにより僕の中にあった何かがヒカリを得て、動き出しただけなのかも知れない。
いずれにせよ出会いとは不思議なもの、それは人のみならずある作品だったり風景だったり……、ある出会いが、彼または彼女の生き方を、進むべき道を明らかにし、鼓舞する力を持つ。

そして今日のマン・レイ展。主催者サイドの意図が明確な良い展覧会だったと思う。準備や展示法にはずいぶん頭を悩ませ、苦労したことが伺える。都心の美術館、たとえば東京都写真美術館あたりで開催すれば最も多くの若者に来てもらえたと、彼の仕事、その足跡をトータルに観る機会はそう滅多にないので、そこはすこし残念。

ただ、マン・レイ広場は、すでに僕の芸術の森マップから消滅している。

これは、例えるなら、小学校で学ぶべきこと、吸収すべきことをすべて終え中学へと進級した者が、再び小学校の授業には戻れないようなものだ。

そんな感じで、あるせっかちな者たちは、身体上の自身の死に触れる前に、この銀河系地球学校での学びを終え、〈空〉と出会ったのだろう。

そして、自身が無限定であったことを知ったのだ。

fillmore east (2020年作)
    

2025/02/04

morningscape -孤独な散歩者のための夢想-

 

 

この曲『morningscape』は、現在住んでいる家のリビングの窓から見える小仏川、その川に寄り添うかのように小さな曲がりくねった山道は続き、そこは犬のユタとの散歩コースでしたが、事故で愛犬を失い、取り乱し、放心し、しばらく散歩することから離れ、ある朝、意を決して、その山道をひとり散歩をしている時の気分が表われているかなと思います。

サブタイトルとして、晩年のルソーの著作「孤独な散歩者の夢想」と付けましたが、この世界を過ごす者で孤独を感じたことが一度もない人は居ないので、別段深刻な意味はありません。

ホワイトシェパードと何か他種とのミックス?犬のユタと共に過ごした時間は7年間という僅かなものでしたが、今、この曲のリマスターをアップするにあたり、こうして文章を書いていると、お!久しぶりだなぁ~、肉眼では見えない場所に、あの白いバランスの取れた体躯を持ったユタがそっと静かに現れる。

そして、ふと思う。

彼は一体僕に何を教え、何を残したのかと。

すると一つの言葉だけが瞬き、僕の内にまだ僅かに残っていた孤独や隠れ潜んでいた悲しのようなものを持ち去っていった。

 


2025/02/03

いつ輪 itsuwa


 コンビニにカフェラテを買いに行くと、顔見知りの坊主がいた。
この坊主は、うちの町内会の一軒家に住むある夫婦の一人息子だが、特に話しかけたこともなく、その家族とも別段仲良くしているわけでもない。ただ、彼がまだ小さな時分から、うちの町内は子供が少ないので、道端で走り回る姿はよく目にしていた。

もう8歳ぐらいになるのか?一時期は、自分のお母さんの病気で、かなり不安げに、その塞いだ気持ちを健気にも彼なりに乗り越えようとする様が美しく、思わず心の内で「なんとかなるよ」と、見かけるたびに遠くから目で声をかけていた。

やがて彼のお母さんは癒え、少年は明るさを取り戻したが、しばらくしていつも一人で遊んでいることに気がついた。すでに小学生である彼には、まだ遊び友だちは出来ないのかしら?と、ある時は近所のタバコ屋さんでウロウロと、何をしているの?そのタバコ屋の前を通るたびに気に留めていたが、おばちゃんの掃除の手伝いをしていた。が、どう見ても、そのおばちゃんが彼の為の時間を作って上げているように見えた。

今日、久しぶりに見かけた少年は、コンビニのカフェスペースで、やはり居場所を無くし毎日のようにそこに来ては何かしら食っている老婆と仲良く?いや、互いの孤独を紛らわす、埋めることなど叶わぬと諦め切った者たちの奥行きのない会話をしていた。

顔に深い澱みと濃い陰りを持つ少年。老い先短い、ボロ雑巾のように丸まった嗄れ声の老婆。

この少年と老婆の出会いには理由があるのだろう。そしてこれを目撃、ってほど大袈裟ではないが、これを見た僕にも何かしらのメッセージが、また書く理由があるのだろう。


少年と老婆、それは僕の心が作り出したキャラクターの一部。人は自分の内にあるものしか見ない、見えない。

外なる世界の何かに触れ、「あんま見たくないよな〜」と、もしこう感じるなら、それは自分自身の内なる闇から、(気がつくようにと、)外に現れたもの。なので、慎重にその不愉快さの中へ沈潜してゆけば、自分の心の闇から解放される瞬間、機会ともなる。


そして、こうして彼らについて想い、考えていると、少年と老婆がすくっと心の舞台に現れた。

―僕を見ている。

なぜか、柔らかく笑いかけている。

itsuwa (1993年作)

 


2025/02/01

胞子のダンス spore dance

 


〜心残り〜   (2023.11.××)


2ヶ月前から、それまで9時〜16時までの2人体制の警備業務が、1名だけ1時間残業の17時までとなった。

この2人現場の責任者である僕は今年の9月、人生始まって以来の強鬱状態に陥り、まるまる1ヶ月間休職し、10月に入りようやく仕事復帰したばかりだったので、さすがに残業の方は勘弁してもらっていた。

今月、たまたま休みの日にその現場前を通りかかった。時はすでに11月下旬、迂闊にも残業中の同僚と出くわした。

「あ、どうもどうもご苦労様です」

やや恐縮しながら声をかけた。

僕より20歳年長の同僚は、ニコニコしながら「今日は寒いね〜」と穏やかに応えた。

すでに夕闇は迫り、辺りはまるで見知らぬ荒野のような様相を呈していた。

2人の身体の輪郭は徐々に闇に溶け込み、2色の声だけが不思議と人肌の温もりを放ち、しばらく立ち話を続けていると、僕の内で何かが弾けた。


翌日、僕は残業をすることにした。



 

〜気づき〜  (2023.12.××)


今日は寒かった。

残業中、身体はぶるぶると震え、「あ〜、いやだなぁ。なぜこんな想いをしなきゃならんの?」と、虚無的な想いがどんどん膨らんでいった。

そんな時、「いや待て、このいやだいやだの想いの先には一体どんな考えが隠されているのだろう?」という言葉が浮かび、「じゃ、このいやだいやだの向こう側を見つめてみよう」と、僕の中で生まれた初めての感情、言葉に、付き添ってみることにした。

そして、暗闇が近づく寒空の下で、「いやだいやだ」は消え、すこし静かになっていた。

「あなた、誰だぁ〜」



 

〜移行〜  (2024.1.××)


この世界に価値はないと、こう言い切ることは誰にでも出来る。

やがて死ぬのになんでそんな頑張らなきゃいけないの? 頑張らないと、まるで「死んでから!」天国には連れてってもらえないかのような、そんな信仰、信念、錯覚を誰もが少なからず持ち続けている。

それって思い込みじゃね? 

なぜなら、死んでから幸せになる為に今生きている間に頑張るってのはある種の「取り引き」であり、忖度じゃん! 果たして、神や仏がそんなセコいこの世のニンゲンが思い付きそうな取り引きや忖度、脅迫めいたことをするだろうか?

たぶん、肝心なことは、今、幸せであるかどうかだけで、死後のことなど実はどうでもいいことなのだ。じゃあ、頑張ることの理由を各自がそれぞれの立場や境遇の中で、自らに深く問うてみることからまず始めること。

で、この問いは、ある洞察を生む。

「この世界はそもそも意味ないが、この世界における自分の生にどんな意味を見出せば良いか?」という問いが生まれて、さらなる省察へと導かれる。時間と空間の法則から自由な、つまり時間の切断や空間の限定などを受け付けない生の意味、目的とは?と。

そして世界は突如ニュートラルなものとして、知覚や心から滑り落ち、新しい世界が出現する。ただしこの世界には「頑張らなきゃバチ当たるよ」的な古くからある考えや恐れは一切どこにも見当たらない。 

天国や極楽浄土とは、心の内側から起こり世界へと拡がる今まさに此処にあり、未来や外なる何処かにあるわけでは無いのだ、という論理的帰結。

spore dance (1999年作)