心の完璧さ、実在の完璧さとは、
心の完璧さ、実在の完璧さとは、
冬眠暁を忘るる
処処啼鳥は出づ
夜来風雨の理
何時ぞ来るらむ
花咲ける頃
この世界の人間の(一時的な生存における)究極の目的とは、
この自由とは、物理的に満たされた環境、
この地球上での生活の内で、
憑かれてゐるのだ、俺は。蒼空、蒼空、蒼空、蒼空。(
死とはなにか?
生死を超えた「生命」に礼拝するための通過点としての、
〈空〉のように澄み切った、境界のない自由な心に、一体誰が、
〈空〉とは、怒りや悲しみとは無縁であり、
if (2020年作)
作曲中の音楽家は、外界の音、環境音を遮断し、
楽音のフィールドへ、他所の音や見知らぬ響きが訪れても、
音符やMIDI(ミュージカル・インストゥルメント・デジタル・
脳機能と聴覚の連動によって生まれ、解釈され、見出され、
音楽を知らない犬や猫の傍で、
風鈴の音は、風を可視化する。
教会の鐘の音は、
「客観性があなたの中で異常に発展すると、
闇の中に置かれた植物は、どんな小さな光でさえも、
同様に、闇に魅せられた音の探求者たちも、
では、音にも眼はあるのか?
眼の付いた音楽。
何を視ているのか?
誰を、探しているのか?
闇の中にとどまり(何か隠しておきたいものがあるから)、自分は光の音を放つのだ、
だが、もしその心が闇に囚われ、自分自身の秘密を恐れ、
光る音。
音の光彩。
光をヴィジュアライズするのではなく、
光に魅せられた音楽。
光を見詰める音楽。
既存の宗教が絵画や言葉によって人間たちを誘惑し、
〈神〉という言葉が意味する、無際限、唯一性、絶対的な愛へと、
自我意識によって作り出された個人の夢や死は、
lifeline(2020年作)
現象の世界はしばし人間に本来的に備わっているであろう絶対的な自由への
アートとは、
録音された音楽は、ただ一回限りのライブ、
まるで自然界の四季折々の変化や、世界の表層上の移り変わり、
録音物による音楽鑑賞もまた、もう一つの時間の入り口となり、
内なる閃光 music is(1994年作)
無闇に細分化した音楽ジャンルの中にはノイズミュージ
ノイズ音楽とは、一般的にはあまり知られておらず、
無限の多様性を有する音楽……。素敵な言い回しですね。もし、
ただ、従来のノイズミュージックの欠点としては、
もちろん広義な意味においてノイズ全般、
たとえば、写真表現とは撮影者(写真家)
p.s.
一時期流行ったミュージック・コンクレート(Musique Concrète)のように、
Spiritual Noise#03(1994年作)
~エンジニアリングについて~
他者の心から溢れ出し、3次元空間へと流れ込み、
これは、自分が作り出した音楽についても(
ただ、他者の音楽作品ではなく、
DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)
ゆえ、僕が作る音楽作品とは、あくまでもLRの2つのスピーカー
この「awakening with」(2020年作)という楽曲は、
この楽曲「カゼノチ」は、
この作品で彼が使用した楽器は、アコースティック・
これまでこのブログで堀内幹の歌、
ちなみにこの「カゼノチ」は、スタジオでの1発録りですが、
堀内幹『one』リマスター
(このブログ内の堀内幹ラベル)
堀内幹の「借りものの歌」
すると、ふと、"無垢"という言葉が浮かんできました。続いて、
神さまと
同じ色さ
遠ざかる
風の中で
彼は「神」
さらに神さまと同じ色であることを告げた、教えてくれたあの「風」
借り物の
歌を歌い
皆と同じ
空を見てる
シンカソングライターである堀内幹は作詞作曲演奏と、全て自分1
たとえば、
森の奥で
繰り返し
回ってる
回ってる
一体、森の奥で何が回っているのか?
彼はそれを見詰めながら、決して言葉では明言しません。
なぜなら、それは眼には見えない「*」であり、
此処に、民族の意匠をもう必要としない堀内幹がこちらを見て笑いかけています。
借り物の
歌でいい
何も違わぬ
ひとつも違わぬ
長い間、ひとり歌を作り続け歌ってきた者が、
そして「羊飼いは笛を吹きながら荒野を降り」、歌を記し、荒野に放ち、
Piping down the valleys wild,
Piping songs of pleasant glee,
On a cloud I saw a child,
And he laughing said to me.
この世界は、民族の歌、民族言語、歌唱法など、
無数の個人的な歌が混沌と渦巻く現代社会の表層的な暮らしの中で
「それは私の中で失われた訳ではない。
この確信が、実は「借りものの歌」のコアであり、
何も違わぬ
ひとつも違わぬ
〜堀内幹の「コブシの花びら」について〜
この「コブシの花びら」という歌は、一見、
では、その歌詞、まず「月が消えたら」と始まります。
月が消える、この歌の舞台は夜であることを告げ、
身体上の眼が効かなくなれば、
月が消えたら
コブシの花びら
風を掴んで 飛んでゆく
「風」という言葉は、
川の向こうで
揺れる帽子は
闇を泳ぐ 子供たち
月が消えた夜に見えた幻影なのか?
川、帽子、闇を泳がざるを得ない子供たちへの哀悼……。
春待ち人は
コブシで消した
今日もずぶ濡れの微笑みを
春を待つ人とは、寒い冬の中にいる人、その凍えた心を、コブシ(
ずぶ濡れの悲しみではなく、これを微笑みとする。
月明かりが消えても、
流れた血の上
祈る背の上
コブシの花びら
舞い落ちる
流れた血、累々たる屍から流れる赤い血の上に、
月が消えたら
コブシの花びら
風を掴んで
飛んで行く
つまりこの「コブシの花びら」という歌は、
p.s
あらたまって確かめたことはありませんが、幹ちゃんはあの太古の花を予感させるコブシの花が大好きなんだと思います。
〜堀内幹の「祈り」その歌詞について〜
この「祈り」という歌は、15年ほど前に発売された堀内幹のアルバム『one』に収録されていますが、今回(経緯を書くと長くなるので、)あらためてリマスターをし、制作当時は「野暮だよなぁ」と禁じていたその歌詞についての解説?をしたいと思います。
まず、この歌詞は
この大地に 手をつき
この大地に 頭をつけ
身体を 私を あなたを
投げ出して
と、始まります。
この歌詞から連想されるイメージは、チベットの五体投地、信仰と大地への帰依の姿形ですね。
彼は10年ほど前に都会での暮らしを後にし、長野県へと引っ越し、農業従事者としての生活を始めましたが、彼はミュージシャンとしての活動を続けながら片手間に農業というスタイルは取れず、無農薬の米作りに全ての時間を注ぎ込むという徹底した態度で望んでいます。それは彼なりの五体投地であり、大地への回帰のための実践であるようにも映ります。
そして次に来る歌詞、
知らないことが
いつしか知らないことが
知っていることと
混ざり合って
降って来る 降って来る
ソクラテスの「無知の知」とは、簡単に言うなら、「自分は知らないということを知っている」ですが、では、何について自分は知らないのか?
山のように 積み重なって
空に昇り 雨になって
降って来る 降って来る
たとえば、真理について、この世界の果てについて、この世界が存在する理由、意味や意図について、個人的な体験をともなった「知」を得、生きた者、生きている存在は覚者以外には居ませんよね。
つまり「自分はなにも知らない」とは、真理を予感した魂の聡明な表明ですが、その「知らないこと」が、「知っていること」、唯一自分がここに存在しているという意識、その個別意識に目がけて「真理(知らないこと)」が到来し、降って来る。混ざり合うとは、ある種の恩寵の喩えであり、啓示を彷彿させます。
そして、次の歌詞で、ここに堀内幹の優しさが表れるのですが、
ただ 息を
少しだけ 深くすれば
いいんだ いいんだ
なぜなら、「自分は何でも知っている」という自負心を手放せない者たちにとって真理の到来とは苛烈な体験となるからです。
重なり合って 折れた身体
枯れた柳の枝が 揺れている
風がやって来た
届け
届け 祈りよ
彼がその歌詞によって描く世界には、この「祈り」という歌だけではありませんが、しばし人間界の地獄絵図のイメージが描かれます。
たとえば、戦場に置かれた者たちが眼にするであろう光景「折れた身体が重なり合って」。事が終幕した後の無常空間「枯れた柳の枝が揺れている」。狂気の場所で渦巻く叫び声と諦念をともなった異様な沈黙、堀内幹は自らをそこに同化させつつ、その奥深いところから自身の「祈り」を露わにします。絶望感が揺らめく煉獄と化した大地、これを変容させる真理や本来の魂の姿とは何か?
(地獄の描写とは、現代の歌世界では異例なことですが、たとえばウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』さらに1472年に出版されたダンテの『神曲』、我が国では千年以上前に書かれた『往生要集』、もっと遡れば『ヨハネ黙示録』と、文学の世界、言葉による表現の世界ではさほど特殊なことではありませんよね。)
この「祈り」という録音芸術としての音楽作品は、堀内幹の声、彼が弾くギター、歌詞、メロディー、ビート等が重なり合ってはじめて成立する世界なので、殊更歌詞だけを引っ張り出して言及することはあまり本質的なことではありませんが、少しでも彼の歌、彼の音楽世界を味わう為のヒント、きっかけになればと思い、数十年の時を経て、ざっと書かせてもらいました。
先週の火曜日あたりに風邪を引き、思うように回復せず、今朝も起きるには起きたがリビングの炬燵の中でグズグズしていた。
なので近場の東京富士美術館へ、カミさんがタダ券を陶芸教室の仲間から貰っていた「愛しのマン・レイ」展を観に行った。
マン・レイと聞くと、高校生だった頃を思い出す。芸術とは無縁な若者に、最初にこのダダイズムの作家を紹介したのは2歳上の先輩だった。
彼は、当時の僕にとって、未知なる世界への水先案内人、彼が勧めるレコードや書物、アーチストは僕が取り組むべき最優先事項となった。
彼との出会いがなければ、僕はアートの道へは進まなかっただろう。いや、もしかしたら、彼との出会いにより僕の中にあった何かがヒカリを得て、動き出しただけなのかも知れない。
いずれにせよ出会いとは不思議なもの、それは人のみならずある作品だったり風景だったり……、ある出会いが、彼または彼女の生き方を、進むべき道を明らかにし、鼓舞する力を持つ。
そして今日のマン・レイ展。主催者サイドの意図が明確な良い展覧会だったと思う。準備や展示法にはずいぶん頭を悩ませ、苦労したことが伺える。都心の美術館、たとえば東京都写真美術館あたりで開催すれば最も多くの若者に来てもらえたと、彼の仕事、その足跡をトータルに観る機会はそう滅多にないので、そこはすこし残念。
ただ、マン・レイ広場は、すでに僕の芸術の森マップから消滅している。
これは、例えるなら、小学校で学ぶべきこと、吸収すべきことをすべて終え中学へと進級した者が、再び小学校の授業には戻れないようなものだ。
そんな感じで、あるせっかちな者たちは、身体上の自身の死に触れる前に、この銀河系地球学校での学びを終え、〈空〉と出会ったのだろう。
そして、自身が無限定であったことを知ったのだ。
fillmore east (2020年作)
この曲『morningscape』は、現在住んでいる家のリビングの窓から見える小仏川、その川に寄り添うかのように小さな曲がりくねった山道は続き、そこは犬のユタとの散歩コースでしたが、事故で愛犬を失い、取り乱し、放心し、しばらく散歩することから離れ、ある朝、意を決して、その山道をひとり散歩をしている時の気分が表われているかなと思います。
サブタイトルとして、晩年のルソーの著作「孤独な散歩者の夢想」と付けましたが、この世界を過ごす者で孤独を感じたことが一度もない人は居ないので、別段深刻な意味はありません。
ホワイトシェパードと何か他種とのミックス?犬のユタと共に過ごした時間は7年間という僅かなものでしたが、今、この曲のリマスターをアップするにあたり、こうして文章を書いていると、お!久しぶりだなぁ~、肉眼では見えない場所に、あの白いバランスの取れた体躯を持ったユタがそっと静かに現れる。
そして、ふと思う。
彼は一体僕に何を教え、何を残したのかと。
すると一つの言葉だけが瞬き、僕の内にまだ僅かに残っていた孤独や隠れ潜んでいた悲しのようなものを持ち去っていった。
コンビニにカフェラテを買いに行くと、顔見知りの坊主がいた。
この坊主は、うちの町内会の一軒家に住むある夫婦の一人息子だが、特に話しかけたこともなく、その家族とも別段仲良くしているわけでもない。ただ、彼がまだ小さな時分から、うちの町内は子供が少ないので、道端で走り回る姿はよく目にしていた。
もう8歳ぐらいになるのか?一時期は、自分のお母さんの病気で、かなり不安げに、その塞いだ気持ちを健気にも彼なりに乗り越えようとする様が美しく、思わず心の内で「なんとかなるよ」と、見かけるたびに遠くから目で声をかけていた。
やがて彼のお母さんは癒え、少年は明るさを取り戻したが、しばらくしていつも一人で遊んでいることに気がついた。すでに小学生である彼には、まだ遊び友だちは出来ないのかしら?と、ある時は近所のタバコ屋さんでウロウロと、何をしているの?そのタバコ屋の前を通るたびに気に留めていたが、おばちゃんの掃除の手伝いをしていた。が、どう見ても、そのおばちゃんが彼の為の時間を作って上げているように見えた。
今日、久しぶりに見かけた少年は、コンビニのカフェスペースで、やはり居場所を無くし毎日のようにそこに来ては何かしら食っている老婆と仲良く?いや、互いの孤独を紛らわす、埋めることなど叶わぬと諦め切った者たちの奥行きのない会話をしていた。
顔に深い澱みと濃い陰りを持つ少年。老い先短い、ボロ雑巾のように丸まった嗄れ声の老婆。
この少年と老婆の出会いには理由があるのだろう。そしてこれを目撃、ってほど大袈裟ではないが、これを見た僕にも何かしらのメッセージが、また書く理由があるのだろう。
少年と老婆、それは僕の心が作り出したキャラクターの一部。人は自分の内にあるものしか見ない、見えない。
外なる世界の何かに触れ、「あんま見たくないよな〜」と、もしこう感じるなら、それは自分自身の内なる闇から、(気がつくようにと、)外に現れたもの。なので、慎重にその不愉快さの中へ沈潜してゆけば、自分の心の闇から解放される瞬間、機会ともなる。
そして、こうして彼らについて想い、考えていると、少年と老婆がすくっと心の舞台に現れた。
―僕を見ている。
なぜか、柔らかく笑いかけている。
itsuwa (1993年作)
〜心残り〜 (2023.11.××)
2ヶ月前から、それまで9時〜16時までの2人体制の警備業務が、1名だけ1時間残業の17時までとなった。
この2人現場の責任者である僕は今年の9月、人生始まって以来の強鬱状態に陥り、まるまる1ヶ月間休職し、10月に入りようやく仕事復帰したばかりだったので、さすがに残業の方は勘弁してもらっていた。
今月、たまたま休みの日にその現場前を通りかかった。時はすでに11月下旬、迂闊にも残業中の同僚と出くわした。
「あ、どうもどうもご苦労様です」
やや恐縮しながら声をかけた。
僕より20歳年長の同僚は、ニコニコしながら「今日は寒いね〜」と穏やかに応えた。
すでに夕闇は迫り、辺りはまるで見知らぬ荒野のような様相を呈していた。
2人の身体の輪郭は徐々に闇に溶け込み、2色の声だけが不思議と人肌の温もりを放ち、しばらく立ち話を続けていると、僕の内で何かが弾けた。
翌日、僕は残業をすることにした。
〜気づき〜 (2023.12.××)
今日は寒かった。
残業中、身体はぶるぶると震え、「あ〜、いやだなぁ。なぜこんな想いをしなきゃならんの?」と、虚無的な想いがどんどん膨らんでいった。
そんな時、「いや待て、このいやだいやだの想いの先には一体どんな考えが隠されているのだろう?」という言葉が浮かび、「じゃ、このいやだいやだの向こう側を見つめてみよう」と、僕の中で生まれた初めての感情、言葉に、付き添ってみることにした。
そして、暗闇が近づく寒空の下で、「いやだいやだ」は消え、すこし静かになっていた。
「あなた、誰だぁ〜」
〜移行〜 (2024.1.××)
この世界に価値はないと、こう言い切ることは誰にでも出来る。
やがて死ぬのになんでそんな頑張らなきゃいけないの? 頑張らないと、まるで「死んでから!」天国には連れてってもらえないかのような、そんな信仰、信念、錯覚を誰もが少なからず持ち続けている。
それって思い込みじゃね?
なぜなら、死んでから幸せになる為に今生きている間に頑張るってのはある種の「取り引き」であり、忖度じゃん! 果たして、神や仏がそんなセコいこの世のニンゲンが思い付きそうな取り引きや忖度、脅迫めいたことをするだろうか?
たぶん、肝心なことは、今、幸せであるかどうかだけで、死後のことなど実はどうでもいいことなのだ。じゃあ、頑張ることの理由を各自がそれぞれの立場や境遇の中で、自らに深く問うてみることからまず始めること。
で、この問いは、ある洞察を生む。
「この世界はそもそも意味ないが、この世界における自分の生にどんな意味を見出せば良いか?」という問いが生まれて、さらなる省察へと導かれる。時間と空間の法則から自由な、つまり時間の切断や空間の限定などを受け付けない生の意味、目的とは?と。
そして世界は突如ニュートラルなものとして、知覚や心から滑り落ち、新しい世界が出現する。ただしこの世界には「頑張らなきゃバチ当たるよ」的な古くからある考えや恐れは一切どこにも見当たらない。
天国や極楽浄土とは、心の内側から起こり世界へと拡がる今まさに此処にあり、未来や外なる何処かにあるわけでは無いのだ、という論理的帰結。
spore dance (1999年作)