2025/02/13

堀内幹の「祈り」


 〜堀内幹の「祈り」その歌詞について〜


この「祈り」という歌は、15年ほど前に発売された堀内幹のアルバム『one』に収録されていますが、今回(経緯を書くと長くなるので、)あらためてリマスターをし、制作当時は「野暮だよなぁ」と禁じていたその歌詞についての解説?をしたいと思います。


まず、この歌詞は


この大地に 手をつき

この大地に 頭をつけ 

身体を 私を あなたを

投げ出して



と、始まります。

この歌詞から連想されるイメージは、チベットの五体投地、信仰と大地への帰依の姿形ですね。

彼は10年ほど前に都会での暮らしを後にし、長野県へと引っ越し、農業従事者としての生活を始めましたが、彼はミュージシャンとしての活動を続けながら片手間に農業というスタイルは取れず、無農薬の米作りに全ての時間を注ぎ込むという徹底した態度で望んでいます。それは彼なりの五体投地であり、大地への回帰のための実践であるようにも映ります。


そして次に来る歌詞、


知らないことが

いつしか知らないことが

知っていることと

混ざり合って

降って来る 降って来る



ソクラテスの「無知の知」とは、簡単に言うなら、「自分は知らないということを知っている」ですが、では、何について自分は知らないのか?

 

山のように 積み重なって

空に昇り 雨になって 

降って来る 降って来る


たとえば、真理について、この世界の果てについて、この世界が存在する理由、意味や意図について、個人的な体験をともなった「知」を得、生きた者、生きている存在は覚者以外には居ませんよね。

つまり「自分はなにも知らない」とは、真理を予感した魂の聡明な表明ですが、その「知らないこと」が、「知っていること」、唯一自分がここに存在しているという意識、その個別意識に目がけて「真理(知らないこと)」が到来し、降って来る。混ざり合うとは、ある種の恩寵の喩えであり、啓示を彷彿させます。


そして、次の歌詞で、ここに堀内幹の優しさが表れるのですが、


ただ 息を 

少しだけ 深くすれば

いいんだ いいんだ



なぜなら、「自分は何でも知っている」という自負心を手放せない者たちにとって真理の到来とは苛烈な体験となるからです。


重なり合って 折れた身体

枯れた柳の枝が 揺れている

風がやって来た

届け 

届け 祈りよ



彼がその歌詞によって描く世界には、この「祈り」という歌だけではありませんが、しばし人間界の地獄絵図のイメージが描かれます。

たとえば、戦場に置かれた者たちが眼にするであろう光景「折れた身体が重なり合って」。事が終幕した後の無常空間「枯れた柳の枝が揺れている」。狂気の場所で渦巻く叫び声と諦念をともなった異様な沈黙、堀内幹は自らをそこに同化させつつ、その奥深いところから自身の「祈り」を露わにします。絶望感が揺らめく煉獄と化した大地、これを変容させる真理や本来の魂の姿とは何か?

(地獄の描写とは、現代の歌世界では異例なことですが、たとえばウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』さらに1472年に出版されたダンテの『神曲』、我が国では千年以上前に書かれた『往生要集』、もっと遡れば『ヨハネ黙示録』と、文学の世界、言葉による表現の世界ではさほど特殊なことではありませんよね。)


この「祈り」という録音芸術としての音楽作品は、堀内幹の声、彼が弾くギター、歌詞、メロディー、ビート等が重なり合ってはじめて成立する世界なので、殊更歌詞だけを引っ張り出して言及することはあまり本質的なことではありませんが、少しでも彼の歌、彼の音楽世界を味わう為のヒント、きっかけになればと思い、数十年の時を経て、ざっと書かせてもらいました。

    

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