作曲中の音楽家は、外界の音、環境音を遮断し、自分が作り出そうとする楽曲の中へと入り込みます。これは音楽の中に積極的に閉じ籠る、ということですが、外から唐突にやって来る見知らぬ音や気まぐれな環境音に対してはかなり過敏となり、神経質な状態に陥ります。
楽音のフィールドへ、他所の音や見知らぬ響きが訪れても、ニヤニヤしながら開かれた状態で音楽の制作を続けることの出来る音楽家は稀です。
音符やMIDI(ミュージカル・インストゥルメント・デジタル・インターフェース)などによって描かれた、または楽器が奏でる無数の音たちよって構成され、時間という土台の上に立つ建造物としての音楽、または壮大な森を彷彿させる音響の世界、川べりの倹しいあばら屋のような音楽……。
脳機能と聴覚の連動によって生まれ、解釈され、見出され、眼に見えない空間のような場所に置かれる音楽家の作品とは何だろう?
音楽を知らない犬や猫の傍で、自分が作り出す音楽の精度を上げることに没頭し、ついついその時空間に囚われ、知らず知らずのうちに心の身動きまでが限定されてゆく音楽家は多い。(それはやむを得ない、音楽家の通過点)
風鈴の音は、風を可視化する。
教会の鐘の音は、この世界がすでに祝福されていることを知らせる。
「客観性があなたの中で異常に発展すると、外部の事物をじっと眺める時、あなたは自己の存在を忘れ、外部の事物と混ざり合うようになる。」(シャルル・ボードレール)
闇の中に置かれた植物は、どんな小さな光でさえも、その訪れに対しては敏感で、さっと光の方を振り向く。(植物にも眼がある?)
同様に、闇に魅せられた音の探求者たちも、もしなんらかの恩寵により光が射し込むなら、多分思わずそちらを振り向くことだろう。なぜか?闇に居続けることはひどく消耗し、やがて眼も耳も効かなくなることを知っているからだ。これは、人間の心の中核に宿る「自然」の声、囁き。
では、音にも眼はあるのか?
眼の付いた音楽。
何を視ているのか?
誰を、探しているのか?
闇の中にとどまり(何か隠しておきたいものがあるから)、自分は光の音を放つのだ、闇の中でこそ光は強調されるだろうと考えるミュージシャンも少なからずいる。
だが、もしその心が闇に囚われ、自分自身の秘密を恐れ、もしくは暗闇に魅了されているうちは、光の音を放つことは不可能だ。
光る音。
音の光彩。
光をヴィジュアライズするのではなく、眼を瞑り、音の光を感じ取ること。
光に魅せられた音楽。
光を見詰める音楽。
既存の宗教が絵画や言葉によって人間たちを誘惑し、彼らが作り出したイメージや概念を脇に置き、〈神〉という言葉が指示する朧気な場所に意識を向けること。
〈神〉という言葉が意味する、無際限、唯一性、絶対的な愛へと、一心に思いを凝らし、「自分の内」へと入ってゆくこと。
自我意識によって作り出された個人の夢や死は、自我意識の始まり、その土台を明らかにすることにより自ずと消滅する。
lifeline(2020年作)
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