2011/12/30

舞台美術家・江頭良年のお店(仕込ミ中) / in Preparation


新年2月上旬-。舞台美術家の江頭良年さんが、セカンド・ビジョンとして、長年の夢だった“ネルドリップ式珈琲とオリジナル欧州風カレー”の店、その幕を上げることになりました。
上記の写真は、その「仕込み中ノ図」ですが、オープンの日に向け、氏は、慌しく、その知恵と筋力、艶やかな美意識をフル稼働しているご様子でした。

舞台美術家のお店! 一体どんなお店になるのか、もう今からワクワクです。


そして下記は、来年3月、東京シティ・バレエ団の「ロミオとジュリエット・全2幕」のチラシですが、この公演の舞台美術は江頭さんが手がけます。


2011/12/01

プラネタリウム映像『アイヌの星』/ TSUKUBA EXPO CENTER


場所:つくばエキスポセンター・プラネタリウムホール
上映期間:2011年12月3日(土)~ 2012年2月26日(日)
制作:AND You

音楽:Riwkakant(リウカカント)


2011/09/18

陸前高田にて / EUREKA-1


今月の初め、まだ台風12号が西日本をうろうろしていた頃、撮影の仕事で岩手県は陸前高田市へ行って来ました。
ここ裏高尾から車で10時間ほど掛かりますが、不穏な天気がつづく中、クライアントのスケジュールの都合により、とりあえず強行、晴れの日が来るまで、現地にて粘る、車中泊万全の四駆を走らせ・・・。2泊3日、結局、雨は止まず、編集者と連絡を取り、仕切り直しをする事に。そしてその第二週目、またひとり現地へ。あの、大きな津波が押し寄せた、町まで。そこで、2泊3日。

仕事の依頼がなければ、僕は陸前高田へ行くことは無かったでしょう。まして、撮影など・・・。
多くの人間をさらっていった海沿い近くに車を止め、夜、明日の撮影に備え、すこし腹に何かを入れておこうと、湯を沸かし、キャンピング・チェアーに座り、カップヌードルをすする。神妙に、語り始めた波のことば、その響きに耳を澄まし、煙草を吸い、インスタント珈琲をいれて、ひとり満点の星空の下で・・・。
もちろん、僕の内の常識の輩は、「よくもまあ多くの命を飲み込んでいった場所できみは寛いでいられるものだね」と。だが、撮影の都合上、僕はそこで眠る、此処に車を止めるしか選択肢は無かったのだ。
ニュースの映像を通しのみ見知っていた場所が、今、僕を包み込むようにして、眼前に在った。
何千もの言葉や想いが湧き上がろうとする僕の思考、心の習慣、これを切断するかのように、皮膚を撫でる海からの生暖かい風、波の音、すでに草花たちが一番に根を下ろし、荒涼とした砂浜に命のオーラを与えていた、そこに住み着き始めた虫たちの鳴き声が、僕の、一人っきりの、夜をやしさく満たした。ずいぶん遠くまで来てしまったという感覚に襲われながら、少しずつ、僕の過去の思い出、数々のシーンが浮上して来ては、「それはすでに夢なのだ」と、静かに遠のいていった。
地球と名付けられた“宝石”の上で、独りで在ることが、あれ程まで自身を充足させてくれることだとは、予想していなかった、ある大きなギフトと呼べば良いのか、月明かりに照らし出された陸前高田、そのうつろな光景、夜と供に、海や、草たち、虫の音と、僕は、そこに居て、身体的、形態的な差、視覚的な区別、区切りなどは、まるで無意味なことのように感じていた。それは、無限の瞬間だった。

完璧な、夜だった。



*この2点の写真は、今回の仕事には使用されなかったショットです。

 

 

 

2011/08/31

宇多田ヒカル、その明るい孤独 / aloness



宇多田ヒカルさんについては、以前、一度だけ、このブログで触れましたが、彼女が他の日本のポップシーンで活躍する、もしくは“した”ミュージシャンと一線を画している、画していた事実を、今回はもう少し明らかにできればと思っています。
ちなみに上記にアップさせていただいた動画は、YouTubeの宇多田ヒカルさんのチャンネル、hikkiチャンネルから、そこに彼女の代表作PVがアップされているのですが、個人的に、現在の心境的に、この『Wait & See ~リスク~』を選んでみました。
僕は、宇多田ヒカルさんの音楽、彼女が作り出す楽曲の一ファンですが、彼女のすべてのCDを持っているでもなく、その活動期に、コンサートを見たことも無ければ、精緻に、歌詞カードを見つめ、確認作業をしたこともありません。ただ、「予感」として、そのデビュー当時から、また、直感的に、彼女の音楽は様々な媒体で取り上げられていましたから、耳にする機会はかなり多く、それで度々、「あ、(主旋律を)そう動かすかあ」とか、「この人の歌はラブソングだけれど、これは個人に向けられたものではなく、ちょっと祈りに近いものがあるよね」という、彼女の類稀な“才能”にたびたび感心させられていた、というより、宇多田ヒカルという一人の人間の“奥行き”に、共感を覚えていたのです。

では、この『Wait & See ~リスク~』、僕はその歌詞をネット検索によってはじめて知ったのですが、彼女はこんな言葉を、あまり目立たないように、記します。

変えられないものを受け入れる力
そして受け入れられないものを
変える力をちょうだいよ
・・・・・・・
どこか遠くへ
逃げたら楽になるのかな
そんなわけ無いよね
どこにいたって私は私なんだから

これらの言葉、あまりにもさり気ないのですが、皆さんはどのように感じるのでしょう。
そして、これは宇多田ヒカルのファンが作ったツイッター「宇多田ヒカルbot」からの彼女の発言ですが、

わたし、極限まで集中できることが一番の能力だと思っていて、曲作りでも歌っているときでも、極限の集中状態まで昇りつめていくと、すごく居心地よくて、懐かしい、気持ちいい場所まで突き抜けるんです。

家の窓を全部開ける。ドアも開ける。えい、壁も壊しちゃえ。すると、空間はつながり、一つの空間になる。自分」の境界線が消える。あらゆるものが無限に流れ込み、無限に解放されていく。

ものごとの本質に近づこうとすればするほど、自意識というものが邪魔になる。自意識を消すためには、外の世界に全感覚を開かないといけない

生まれ変わっても自分を自分だと思うのならば、今とまったく同じだと思うんです。だから特に「変りたい!」とか、生まれ変わったら何になるとか考えないですね。


と、他にも気になること、かなり本質的なことを、彼女は自分の言葉で語っていますが、20代の人間が通常考える事、内容ではないですよね。さらっと語っているところがまた清清しいです。
そして、これは彼女の特異な生い立ちが、環境が、そこに向かわせたと考えるのはすこし安易ですね。人間の、猥雑な営み、この混沌の世界にあって、誤魔化さず、いや、誤魔化せず、「なぜ?」という問いを、生きてしまうことから、まったく逃げようとしてこなかった、いや、逃げられなかった一人の人間の、誰にも共有されることのない、また、これを望みもしない、無垢な祈りの姿がありありと見えてきてしまうのは、僕だけでしょうか。




2011/08/15

レンブラント/ Rembrandt


この油絵はレンブラントさん(1606-1669)が最晩年に描いた自画像ですが、彼が描いた数多の自画像の中で僕は一番気に入っています。
ところで、僕のメインPCのモニターの背面の壁には、このレンブラントの自画像の複製画とダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が、無造作にピン留めされ、仲良く並び、ふとモニターから眼を逸らせば、こちらの視線と交錯するように、いえ、「僕を見てる!」なんて創意工夫がなされ、放っておけばオモムロにやんちゃな事を仕出かす若輩を、ハハ、たえず見張らせているわけです。
レンブラントとダ・ヴィンチ、現代美術などを通暁していらっしゃる方々からすれば、あまりにもベタで、さほど重要な作家ではないんでしょうが、ところがどっこい「作品」にとって過去も19XXも無いわけで、見るという行為は「今」の事だから、制作年月日なんてものは美術史家の興味対象事項で、大切なのは一事が万事「作品」の良し悪しです。徹頭徹尾、物は眼で知覚するもの、視るものだからです。
ですから、映画で「ダ・ヴィンチのコード」でしたか、ああいった詰まらぬ思考の遊戯が、分析の仮面をかぶった妄想が、ますます鑑賞者サイドを「作品それ自体」と直に触れるチャンスを、その「瞬間」を遠ざけてしまうのです。本来、誰にでも備わっている「作品」を堪能しうる鑑賞眼というものを喪失させてしまうわけです。鑑賞眼が今だ成熟していない人は、不安にかられ、ついつい思考や概略で物を見ようとしますが、これをすれば思考が、言葉がイメージを捏造し、自身の眼に幾重ものフィルターをかけ、実際、ますます“直に”物は見えなくなるのです。よくわからない、作品を味わえない際は、別に焦る必要は無いので、思考など動かさずに、ただずっと“見えるまで”付き合って往けば良いだけです。

現代美術、巷で賑わっている作品郡などは、僕にはちょっと見るに耐えない、お粗末な仕事ばかりのように映ります。だから「現代美術?よくわからないわ…」は、ある意味正しい反応であり、幾つかの哲学的社会学的モダンな知識さえ修得すれば詰まらない程、分りやすいものなのです。
マルセル・デュシャンやボイス、リヒターなどの作品は、実は非常に分りやすいのですよ。コンセプト重視の「作品」、仕事は、眼の事ではなく思考によって絵解きされたものだから非常に分りやすいです。
さらに、この際なのであえて書きますが、政治的メッセージをもったアートとは、アートが政治に対して何かしら貢献しうるという期待が込められていますが、これは実際にはアート、芸術への侮辱となります。アートが、この社会に対し、時の政治に対し、なんらインパクトをもち得ないと言う懐疑的確信、その裏表明に過ぎないのです。なぜなら、アートとは、時世などには微動だにしない、またこれを軽々と凌駕しうる、もっともっと普遍的な諸問題を扱うことのできるメディアだからです。

 

 

2011/08/13

マイケル・ヘッジス / Michael Hedges


それでは、今夜はマイケル・ヘッジス。
この天才ミュージシャンについて、以前このブログでも簡単に触れましたけれど、ん~、彼は、もうこの世にいないんです、って、あまり彼について書くことは、、、、無いね。彼の音楽は僕に無言を強いるのです。
サウンド的に見たら、昨日ご紹介したロドリーゴ・イ・ガブリエーラより前に出る音と、その音域をささえる裏面の音?、「響き」とのバランスが絶妙ですね。最近の音楽は、どうしても前に出る音ばかりを突出させる傾向にあるから、奥行きがデッド、死んでるんですね。これ、デジタル録音の弱点と、まあ、山下達郎さんを腐心させている処ですが、僕はね、実はアナログもデジタルも、あまり関係ないと思ってます。たぶん時代が、奥行きを消していった、というか、人々が、奥行きの中に入っていけなくなったんじゃないのかな。奥行きの内をさまよえるだけの体力、と書けば、最近の人はほんと“文字通り”にしか受け取らないので、精神力ね、これを失ってしまった。



一番重要なことは、音楽を聴く際、どこにピントを合わすかです。
これは「生身の人」と出会う瞬間と、よく似ているよね。
姿形、その音楽の形式や様式、こういった表層的な面に捕われてしまえば、心の美、音楽の美とは、なかなか出会えなくなるものです。
顔かたち、プロポーションで選んで失敗したという話はよく聞きますでしょ(笑)。

「あなた」というものがなければ「わたし」はいない。つまり「わたし」とは「関係」によってうまれる。
だから出会いは激しいほうがいい、「関係」は、緻密で、開放的で、それぞれのスガタカタチを突破し、素性から解き放たれて・・・。
注視しなければ、「人」は見えて来ないはず。「音」と出会う、聴くとは、そういう事。
「娯楽」とは、自己閉塞的な状態、故に「自分」とも「他人」とも出会えない。
 
 
 

2011/07/26

遠山サキ / Saki Toyama



7月初旬。
祖母がバスと飛行機を乗り継いで、私達が住んでいる高尾へ足を運んでくれました。
そして祖母が生活の中から身につけた知識の一つ、カエカ(糸作り)を地域の方々と学びました。
この映像は、その時の様子を海沼武史氏が撮影・編集したものです。

祖母が来る前に、私は海沼氏に「歌を録音して欲しい」と、伝えていました。
記録としての意味もありましたが、彼の眼を通して祖母がどのように映るのか興味がありました。

昭和一桁生まれの祖母は、まだアイヌ語が生きていた頃の記憶を残している数少ない長老の一人。
沢山の苦労話や歌は、涙無しには聞けませんでした。怖くて聞きたくない時もありました。

けれども今は、全国各地から祖母の話を聞く為に沢山の人々が遠く北海道の浦河まで訪れては去っていきます。
祖母は、そんな人々を暖かく迎えて、ゆっくりと親身になって話を聞いていました。
幼い頃の私は、その横でその風景を静かに眺めていました。時には嫉妬もしたし、私もあれこれ教えて欲しいこともあったけれど、それよりも同じ時間を過ごしていることの方が嬉しかった。

大人になってから、一人で歌うことが多い私は、「祖母は一人で歌う時どんな想いで歌うのだろうなぁ」と、ふと思いました。
そして今回、無理を言ってお願いしたのです。疲れていたのだろう、眠りから醒めた祖母は「お前に残していくからなぁ~」といって、快く引き受けてくれました。本当に、それは嬉しい一言でした。

今頃は、遠く太平洋の向こう側で歌を歌っているのでしょう。
ku kor huci ソンノイヤイライケレ~ありがとう。

それから、緊張しながらも苦心して制作して下さった海沼氏、ありがとうございました。感謝します。


Toko Emi

2011/07/04

饗宴 / Symposion



先週の日曜日、我が家に蜂須賀公之がやって来た。
彼のことだから、また料理を作るのだろうと予感し、最近、中村明博の紹介で知り合いとなったフラワーコーディネーターの美之さん、野草に興味があると聞いていたので、ぐぐっと誘ってみた。
が、彼女はその日、かなり体調が良くなく、「せっかく誘ってもらったのに、、、ごめんなさい」と、電話口で丁寧に断ってきた。
「これは縁が無かったのだな」と、僕は蜂須賀公之からの電話だけをぶらぶらしながら待っていた。
彼がウチに遊びに来るのは、1年ぶりとなる。その時の模様は、勝手に動画にした。
1年に1度しか会わない、会えない男。いいねえ、そんな関係も。お互い、もう十分知り尽くしているからね、このぐらいの距離とスペースが、ふふふ、美しいのだ。
突然、電話が鳴った。
なぜか、美之さんからだった。

「どうしたの?」
「いま、高尾に居ます」
「って、あれ?カラダは大丈夫なの?」
「この機会逃したら、次は無いかなと思って」
彼女は2時間近くかけ、ウラ高尾にやって来ていた。

思い切りのいい人、度胸のある人って好きだな。
それは、多分に自分の小ささを、きちんと受け止めているから、知っているからだ。
ここだけは逃げちゃいけない、ここは無理しなきゃ、という野生的な、根源的でモダンなセンサーが働いている人、そうあろうと努めている人って、素敵だね。
自分の弱さをしかと受け止め、認めた人にしか、何かを表現する資格はない、いや、作家には成れないと思うんだな。
別にモノを表現する側などに立たなくても良いし、表現者が偉いわけでもなんでも無いが・・・。
みーんな、小さいのだし、弱っちい。だから、美しさを、この目で見たいし、顕わにしたいんよ~。



The image of the poet's in the breeze
Canadian geese are flying above the trees
A mist is hanging gently on the lake
Our house is very beautiful at night


by Lou Reed

 

 

 

2011/06/22

額装デイレクター・中村明博 / Akihiro Nakamura (frame director)



彼、中村明博の額装デイレクションについて、僕自身がもっとも感銘するところは、作品に対する、彼のその「接し方」にあります。もちろん、この接し方は、作品に対する彼の理解および解釈といものがベースに生まれるものですが、これは作品それ自体への真摯なまなざし、精緻な審美眼というものが無ければ、かなり乱暴で無作法なものとなります。が、彼の額装デイレクションに触れるたび、彼の作品への、絵画や版画、写真への読み、味わい方などを、「この男は一体どこで、どうやって身に付けたのだろう?」という、不可思議な気分に落としてくれます。この世に存在しないだろう濃密で深い湖のブルーの源まで連れていかれるような、華やかで清清しい感情をいつも僕の内に残してくれます。
ある時、彼に「あなたが思う究極の額装とはなんだろう?」と尋ねたことがあります。
「作品を囲うという行為において、実は、究極的に言ってしまえば、紐でもテープでもいいんですよね」と微笑みながら応えてくれた。
ここに、今回アップされた動画には描ききれなかった、彼の額装に対する思想の核心があります。
つまり、作品という「イノチの現場を囲う」ための結界としての役割、機能を立ち上げようとする額縁・・・。
西洋美術史上で生み落とされた額縁、額装というジャンル、これを、東洋の滋賀県の琵琶湖近くで生まれ落ちたある男が、その際際、あの普遍的な処まで「額装それ自体」を、追いつめようとしているのです。

 

 

2011/06/12

「海沼武史X中村明博」展・予告 / Takeshi Kainuma X Akihiro Nakamura Exhibition (preview)



2011.06.03 fri - 06.28 tue
海沼武史 X 中村明博 展  『breathing -吐息ノ艶ヲ愛デル-』

時間が流れる、風を感じる。わたしも確かにそこにいる。  江頭良年(舞台美術家)


もうすでに開催中の展覧会ですから、“予告”というのも変ですが、、、。
やはり中村明博との共作品は、複写や動画で伝えるのは困難であると、あらためて認識させてくれる、実物を見ていただくしか無い、という動画となりましたが、会場にお越しになれない方々のために、すこしだけ、その模様をお伝えさせていただきます。



film and music by Takeshi Kainuma and Riwkakant

 

  

2011/06/01

海沼武史DVD映像作品集 / do nothing, do all

海沼武史DVD映像作品集 
『breahing -吐息ノ艶ヲ愛デル-』


今月の3日(金)から開催される「海沼武史x中村明博 展」を記念して・・・、いえ、密か、節目であると感じている僕は、額装デイレクター・中村明博とのコラボレーション作品展『breathing -吐息ノ艶ヲ愛デル-』とはまた異なるベクトルをもった、角度からの吐息、breathingを、一枚のDVDに込め、発表することに致しました。
一枚の停止画、時間や動きをとめてしまう事によって時間の無限性と空間の艶やかなる“奥行き”を開示させようとする“写真”ではなく、動く映像、時間に寄り添いながら、あまりにも説明的で、唯物論的な動きのみをなぞる事しか叶わぬ動画・・・、もし、僕の内で、言葉になることを拒みつづけるメッセージが在るとしたら、写真と動画、視覚的には、網膜レベルでは、まったく異質の表現形式と効果、作法をもつ二つのジャンル、しかしその裏面には、実は唯ひとつのことしか描かれていないことを、鋭敏なる鑑賞者である皆様方には、すぐさま知覚できるだろうことを期待し、数多の現象の波間にそっと提示させていただきます。



すべての見えるものは、見えないものにさわっている
聞こえるものは、聞こえないものにさわっている
感じられるものは、感じられないものにさわっている
ノヴァーリス(Novalis)



定価 3.000円 (税込)
オーダーは riwkakant@yahoo.co.jp もしくは展覧会場にて。

2011/05/18

家の中の美・美の中の家 / beauty,life and death


以前、ある雑誌の表紙に“インテリアとしてのアート”という言葉を見かけた。
西洋風の住居空間の壁に、額装されたオリジナルプリントの写真が飾ってあった。
「(こんな風に)身近な場所で、あなたの生活空間にてアートに接してみては如何ですか?」と、さり気なくお洒落に演出された紙面だった。
 特集が組まれていた。
読者は、たぶん「素敵ねえ、でもウチにはこんな広い壁が、アートを飾れるだけのスペースが無いから無理よねえ」がほとんどで(?)、でも「いや、小さいサイズの作品だったら可能かも・・・」。

美術館やギャラリー空間のみでアート作品に触れるのではなく、自分たちの暮らしの中にアート作品を引き寄せる、アートをより身近なものに、精神の贅沢とし、付き合ってゆく。これは確かに現在の日本より欧米の方が日常化しているようにも見える、が・・・。話が脱線した。

“インテリアとしてのアート”、もしくは“インテリアとしての写真”、日本人が、その住居内にアート作品を背伸びすることなく飾る、これは大いに結構な事だと思う。
僕も写真をやっているから、写真を買ってくださる方々が増えたら、これは悦ばしい事。また、そのプライベート空間に、公的な場所では得がたい、ナチュラルで、リラックスした雰囲気の中で、ひとり静かに、僕が撮影した場所、水や草や風景シーンなど、ゆっくりと堪能していただけるなら、非常にやさしい気持ちにもなれる。

ただ、アートというものは、決して“インテリア”ではないんですね。なぜなら、インテリアが、あなたの心の一等うつくしい在処を照らし出してくれるだろうか?
「あなたは今まさに此処に存在している」「あなたには無限の可能性がひらかれている」等々、それぞれの存在の一番深いところにある、眩いばかりの人間存在の秘密を、その意識のからくりを、「美=個=全」という体験のさわりを、さり気なく開示してくれた事があっただろうか?

アートというのは、体験するものです。なので、インテリアとしての“ポスター”というのはありだが、インテリアとして成立してしまうアート作品とは、たんに壁に飾られた四角いイメージであり、そもそも「アート」とは呼べないんですね。
もちろん写真は、アート、芸術ではありませんが、人々に“芸術”体験を与えうるメディアであります。で、もしかしたら絵画以上に「わたしは今、此処に生きている」というあの美的次元における「直知」を、非常に生々しい形で、肉感的に体験させてくれるかもしれません。

6月3日(金)からはじまる額装ディレクター・中村明博との展覧会。そもそも額装者または額職人とは裏方存在であり、決して作家の仕事と同列に扱われることはありませんでした。
翌日4日(土)には、僕の住居兼事務所を開放し、ささやかなレセプション・パーティをおこないます。彼との共作、作品を、20点ほど一挙公開いたします。
住居空間を開放し、この日のために、インテリアではない写真、作品を壁に飾りつけ、見ていただくというのは、僕もはじめての経験、テーマ、コンセプトは「家の中の美」ではなく「美の中の家」です。



p.s.先月の「床絵美xSANPE」コンサートの一週間ほど前からTwitterをはじめました。ときにつぶやいております。http://twitter.com/#!/riwkakant

 

 

2011/05/11

「海沼武史X中村明博」展 / breathing -吐息ノ艶ヲ愛デル-



海沼武史 X 中村明博 展  『breathing -吐息ノ艶ヲ愛デル-』

写真家・海沼武史と額装ディレクター・中村明博が織り成す珠玉のコラボレーション展



期間:2011年6月3日(金)~6月28日(火)
場所:珈琲自家焙煎の店「ふじだな」 ℡042-661-0798
住所:東京都八王子市裏高尾町1254
時間:10時~18時(最終17時)  
定休 / 水・木 


オープニングレセプションパーティー
2011年6月4日(土)17:00~入場フリー (会場近く“海沼武史事務所”にて)



2011/05/02

床絵美 Toko Emi / yaysama



今宵は、2011年4月22日(金)アイヌ伝統音楽ジョイントコンサート『Ainu New Wave -床絵美 X SANPE-』から、床絵美の「yaysama」をお届けいたします。


*前回のSANPEと同様に、この動画のライブ映像はフォトグラファー熊谷絵美によって撮影され、他は海沼武史により撮影・編集されたものです。

2011/05/01

サンペ SANPE / Sarorun Kamuy



2011年4月22日(金)アイヌ伝統音楽ジョイントコンサート 『Ainu New Wave -床絵美 X SANPE-』から、SANPEの「Sarorun Kamuy」のライブ映像をお届けいたします。

この国の行く末が見定まらぬ不安定な現実の内、様々な想いがよぎりますが、広尾の会場までわざわざ足を運んでくださった方々には大変感謝しております。

2011/04/26

床絵美 Toko Emi in La MaMa,NY / A Prayer For Japan



2011年4月25日(月)夜7時半、ニューヨークの「ラ・ママ劇場」にて、 東北関東大震災の支援コンサートが開催されました。そこに、ビデオ出演という形で床絵美が参加させていただきました。
上記の動画です。

この動画制作において、快くスチール写真を提供してくださったporonnoteiこと郷右近好古氏、輪唱で参加していただいたYuこと大住祐子さん、そしてこのビデオ制作において貴重なアドバイスをくださった舞台美術家の江頭良年氏をはじめ、ご協力を賜りました関係各位に謹んで感謝の意を表します。


海沼武史 拝

2011/04/04

『床絵美 X SANPE』コンサートのお知らせ / One Night Only


〜海沼武史プロデュース〜
アイヌ伝統音楽ライブコンサート
『Ainu New Wave -床絵美 X SANPE-』

期日:2011年4月22日(金)18時〜19時30分
会場:EMON PHOTO GALLERY
入場料:3500円 1drink付き

※先着40名様
受付はEメール riwkakant@yahoo.co.jpにて。
定員になり次第締め切らせて頂きます。

2011/04/02

堀内幹 / デスマスク




「昼の明るさに、夜の闇の深さがわかるものか。」
これは有名なニーチェの言葉ですが、こんな風に言い換えても良いのですね。

夜の深さを知らない魂に
夜の闇に突き落とされたことのない心に
昼の明るさがわかるというものか
いや、陽光の切実さというものが・・・
生の明るさを、真に知ることはないだろう

そしてノヴァーリスの言葉-。
「苦痛を避ける者には、愛する意志がかけている。」

著名な者たちの言葉を引用して、堀内幹を“額装”しようとしているのではありません。
今、この時期だからこそ、彼の歌声を送り届けてみたかったのです。

僕たちは、まだ、「生」を知らない。

2011/03/27

海沼武史写真展 『八人の王が眠りに就く処』 / preview


海沼武史写真展 『八人の王が眠りに就く処』

二十年以上に渡る作家活動の末に到達した極北の地で見出された「美=生」とは何だったのか。
風景写真の原点へと遡行し、現代に蘇らそうとした、氏の渾身の展覧会を開催いたします。

期間:2011年4月7日(木)~4月30日(土)
場所:EMON PHOTO GALLERY
住所:東京都港区南麻布5-11-12 togobldg B1F
時間:平日11:00~19:00 土曜日11:00~18:00 (日曜祝日 休館)

オープニングレセプションパーティー
2011年4月7日(木)18:00~入場フリー

+++++++++++++++++++++++++++++

2011/03/21

盲目の・・・ / joy inside my tears


視覚を奪われた人々の声
この世の酷い光景に触れることもなく・・・

だが、なぜ痛みを覚えるか?
祈ることを どうして
その胸に置いたのか?

僕たちは、盲目で産まれて来た者たちより
酷く、なにも見ずに生きてきた。

今日は
久方ぶりの雨。
(放射能、浴びる時は皆で浴びる)

死をみつめることによって
生を見い出す
「?」
暗闇の深さに潜り込まずに
ヒカリの在所へ? 
いや、それはすでに其処にあった
何処にでも在る ヒカリ
だから・・・
踊りませんか?
生も死も
ほらほら時間も場所も 
越えたところで、ね

知らない処ー。



Stevie Wonder - Joy Inside My Tears (1976)

 

 

2011/03/17

最期の栄光 / the final glory


最期の栄光、最前線の・・・。

すでに、汚染されていたのは、僕たちの心(思考と感情)の方ではなかったか?

いま、まさに、揺れて、。

逃げ惑う子羊たち、若者たちは放射能が怖いと言う、未来の子供たちのために、とも言う・・・。

漫画と映画とゲームの三本立てでやられた心は、恐怖に駆られ逃げ惑う

どうぞ地球の片隅へ、西方へ、どこまで行っても地の表面、どうぞお逃げなさい。

たまにはさ、柳田國男の『遠野物語』を拓き、「山の人生」を胸に置いて

ただしい戦慄をして来なかったから、子供の心、その中心にすくっと立った、柔らかな、みずみずしい

なによりもピュアで、野生的

あまりにも無力で、壊れやすい

じぶんの傍に在る親たち、その者たちへのひたむきな、僕たちが社会生活や脆弱な観念

そして肥大化した自意識にまみれ手放した、「在るモノ」

を、感じれなくなってしまったんだろうな。


しっかりわが子をみつめてごらん。

答えは、すぐそこにある。

抜き差しならぬイノチのことなら、子供の方が明晰だ。

かれらは、親とともにあるなら、そのイノチを惜しまない。

 

 

2011/03/16

海沼武史写真展 『八人の王が眠りに就く処』 / after Atget


来月の4月7日(木)から、広尾のエモン・フォト・ギャラリーにて、海沼武史写真展を開催する予定です。

詳細は、決まり次第ご報告させて頂きます。

そしてこの会期中に、たった1日だけの先着40名様限定スペシャル・ライブ 『AINU NEW WAVE 床絵美XSANPE(千葉伸彦)』を行う予定です。

 

 

2011/03/14

想う事

音楽とは、体験するもの。未知を、体験する処。それ以外に、音楽に意味はない。価値はない。
人間にとっての時間や空間に色付けするための、彩を与えるためだけの、娯楽としての音楽に、これを作り続けることに、どんな意味があるというのか。
「音楽」と、音楽のまったくない状態、意味の、不在、あの「沈黙」と呼ばれている時間や空間を越え出てしまった処で体験しうる意識の状態、「沈黙」と、音楽に耳を澄ましている状態とは、突き詰めてしまえば、なんと仲良く、似通い、相伴っているのだろう。

敬愛している音楽家は誰かと問われれば、僕は真っ先にジョン・セバスチャン・バッハと応えますが、バッハの数多の仕事、作品群があり、聴く機会がもてたからこそ、僕の音楽上の実験が許されるのではないか、いや、音楽を作る意味など、その必要性など、そもそも10年以上も前から感じられなくなった僕が、音楽上の実践というある種の愚行をこうして今なお続けているのも、すでにバッハの仕事があるからだと、これは詭弁かもしれない、でも、そのように、この途方も無い人間の、かりそめの、文明生活を続けてゆく、生きながらえてゆくというこの不毛感を、また不毛と感じる僕の感情と思考のからくりを暴露するまで、の、延命行為・・・。

東日本にて、大きな地震があった。僕はその光景を平板なテレビ画面を通してしか見ていない。

僕らの自意識は、すでに地球という生命体の規模を超えてしまったようだ。人の命は地球より重いのだろうか。地球があるからこそ、僕たちが今ここにある、生息しうるという歴然とした事実、あまりにも当たり前の事実は忘れがちだ。
そしてさらに、実際、地球があるから生じたに過ぎない僕たちの自意識、心と名づけられた虚体、個人名、そして恐怖・・・そこから去来する、噴出する歓びや哀しみや・・・、愛とか、憎しみであるとか・・・もし、真に、人命救助を第一に志向する本能が僕たちの内で生き生きと躍動し、自意識や人間の心などを凌駕していたなら、そもそも原発やこの文明の姿は、無かっただろう。貨幣などという抽象物の発案もない。意味や、価値を与えてしまったことも。
また、これまでこの地球上で繰り返されて来た、僕たち人間のみが引き起こす「戦争」という茶番など、宗教など、神などという空想事さえも、瞬く間に消滅していたはずだ。

僕たちは木々のように、そして小鳥たちのように、ただ生まれ、死ぬ。それだけでも、なんと美しい事か。
身体上の本能的恐怖が、絶えず心理的恐怖にまで飛び火し、僕たちの思考や感情、自意識を錯乱させ、膨張させる。恐怖に、実態のない架空の生命を与える。そしてこのからくりを看破しない限り、僕たちの哀しみなど、愛と呼ばれている感情の、想念の動きなど、真実ではないだろう。甚だ個人的な、自意識が呼び覚ました自己愛の変種に過ぎないのだろう。つまり、僕たちはまだ真実を生きていない。もしすでにこれを生きられていたなら、真実という言葉はない。
この地球上で、ほんの短期間、居候させてもらっているだけに過ぎない存在、ちいさくて、眩いばかりの僕たち人間ができることなど、実は、何も無いのだ。そして、この何も無いという直知、直覚だけが、はじめて、たぶん、それぞれが、それぞれの瞬間において、コウベを垂れる瞬間を与えてくれる。地球上で、「本来の人間」の営みの法というものを、教えてくれる。

 

 

2011/03/11

海沼武史CD『予報』/ New!! re-Master ⑫



FORECAST / Takeshi Kainuma

01. itsuwa -いつ輪-  (7:40)

02. fluorescence -蛍光-  (6:22)

03. yuki -ゆき-  (9:36)

04. hikarinoshiwaza -ヒカリの仕業-  (12:09)

05. yurai -ユライ-  (6:44)

06. hoshinokarami -星のからみ-  (6:48)




¥2.000(税込) 

*問い合わせ riwkakant@yahoo.co.jp


海沼武史 Takeshi Kainuma CD『予報・FORECAST』のbrochureはこちら(PDFファイル)

2011/03/10

海沼武史CD『魔法』/ New!! re-Master ⑪



Magic / Takeshi Kainuma

01. plelude  (6:33)
02. intercourse  (6:40)
03. spiritual noise-1  (7:43)
04. the night  (7:04)
05. spiritual noise-2  (6:24)
06. cycle  (5:28)
07. time for the suspect  (5:40)
08. spiritual noise-3  (7:02)


¥2.000(税込) 

*問い合わせ riwkakant@yahoo.co.jp


海沼武史 Takeshi Kainuma CD『魔法・Magic』のbrochureはこちら(PDFファイル)

2011/03/09

海沼武史CD『キアノ』/ New!! re-Master ⑩



the Qiano / Takeshi Kainuma

01. piano-1  (6:54)
02. piano-2  (5:11)
03. piano-3  (7:08)
04. piano-4  (7:01)
05. piano-5  (6:00)
06. piano-6  (8:09)
07. piano-7  (15:02)


¥2.000(税込) 

*問い合わせ riwkakant@yahoo.co.jp


海沼武史 Takeshi Kainuma CD『キアノ・the Qiano』のbrochureはこちら(PDFファイル)

2011/03/06

海沼武史CD『経験音楽vol.1』/ New!! re-Master ⑨



the Empirical Music vol.1 / Takeshi Kainuma

01. Asagaya  (6:26)
02. Trampman (6:48)
03. blot in the light  (5:01)
04. colossus  (11:26)
05. point+formula   (11:42)
06. rebirth+public life  (15:34)

¥2.000(税込) 

*問い合わせ riwkakant@yahoo.co.jp



海沼武史 Takeshi Kainuma CD『経験音楽vol.1・the Empirical Music vol.1』のbrochureはこちら(PDFファイル)

2011/02/28

『器』 / utsuwa



先日、ここ裏高尾には雪が降りました。
その際、撮影した映像を、以前制作した楽曲「itsuwa -いつ輪-」という、ちょっと実験的な音楽と重ね合わせてみました。

僕たちの五感は、たぶん、まだ使用されたことの無い、眠り続けているパーツが豊富に在るのでしょう。
この五感、知覚が、感覚の射程範囲というものが拡大すればするほど、この世界は、人間が作り出す文明は、今とはまったく違うものになるのかもしれません。
いわゆる真のアナーキズム、「革命」とは、表面的な、社会学的な視点による、その領域内での挑戦、または実践というより、僕たち人間の「五感」にそのヒントが、個々人の(無意識も含む)意識の舞台上に、希望もしくは秘密があるのではないかと、つい1年ほど前まで、僕はそう信じていました。
また、そのような内的革命を促す、まだ使用されたことのない感覚を刺激する、開花させるような作品を良しとし、これは18世紀の詩人ウイリアム・ブレイクの言葉ですが、「もし知覚の扉が浄化されるならば、全ての物は人間にとってありのままに現れ、無限に見える。」を、自身の創作信条として参りました。
が、少しずつ僕の内で何かが起こり、始まり、・・・。

以前作られた楽曲の質感、狙い、真意等は、幾ら再ミックスダウンを施したところで、変えようがありません。ですから、上記の動画は、やや消化不良気味に感じる、ピントがぐらつく箇所があります。が、この澱み、分裂こそが、現在の僕の心境、立っている場所そのものの姿ではないかなと、漠然と、出来上がった動画を見て、そう感じます。

ところで、話は変わり、今年は4月から、床絵美のソロアルバム第2弾、そしてリウカカントの3枚目のアルバムの録音・制作に入ります。
年内には発表できるかと思いますので、またどうか宜しく、乞うご期待ください。


film and music by Takeshi Kainuma / 映像と音楽:海沼武史

2011/02/25

海沼武史CD『空気としての音楽vol.3』/ New!! re-Master ⑧



the Aerial Music vol.3 / Takeshi Kainuma

01. dear-3  (21:42)
02. dear-4  (15:55)


¥2.000(税込) 

*問い合わせ riwkakant@yahoo.co.jp


海沼武史 Takeshi Kainuma CD『空気としての音楽 the Aerial Music vol.1-3』のbrochureはこちら(PDFファイル)

2011/02/24

海沼武史CD『空気としての音楽vol.2』/ New!! re-Master ⑦



the Aerial Music vol.2 / Takeshi Kainuma

01. dear-2  (38:58)


¥2.000(税込) 

*問い合わせ riwkakant@yahoo.co.jp


+++++++++++++++++++++++++++++++++

音楽とは何だろう?

これは体験するもの。

音楽鑑賞とは何だろう?
単に今ある時間、空間に彩を与えるためだけのミュージック
娯楽、ただ無造作に流されているだけのインテリア・ミュージックではなく
音楽に触れる、その聴者の「聴く」という姿勢、その集中の度合いにより
ある体験を付与することができればと
これに仕える事 願う事
夢のような体験をプレゼンスする事
信仰を消した処で
両の手のひらを 思わず
合わせてしまう事
これは、その音楽を制作した者が、その過程の内で
その制作の途上にて、何かを体験していなければ
まったく不可能な事 (だから、真摯に磨きをかけよう)
確かな「作品」としての態を成さない
音を通して、ある体験の舞台を用意する事
その美しさ
その難しさ

音楽とは
何か?
---怖ろしい「問い」だ。

沈黙を
聴く事ができるだろうか?
もし
あらゆる心たちのざわめきや
言葉で構成された思考の群れ
まるで整理されることの無い感情の響きを
そっと静かにしてしまう事
名前の無い草花のゼロを
真の沈黙というものを
体験した者が在るとするなら
たぶん
人の作る音楽は 
儚いばかりだ

散乱する音世界の向こうの方には
秘められた 豊穣としか呼びようの無い
心など 消えてしまうばかりの
(過去と未来が抱き合う)
沈黙が
無限底に広がる

2011/02/14

海沼武史CD『複数の耳』/ New!! re-Master ⑤



Plural Ears / Takeshi Kainuma

01. scene #01 (15:35)
02. scene #02 (15:33)
03. scene #03 (15:34)
04. scene #04 (4:30)
05. scene #05 (16:35)


¥2.000(税込) 

*問い合わせ riwkakant@yahoo.co.jp

海沼武史 Takeshi Kainuma CD『複数の耳 -Plural Ears-』のbrochureはこちら(PDFファイル)

2011/02/12

海沼武史CD『朝』/ New!! re-Master ④



morning / Takeshi Kainuma

01. jorney    (15:49)

02. one future    (4:36)

03. bracelet    (9:49)

04. road    (5:37)

05. dawn    (9:40)

06. another green world    (6:24)


¥2.000(税込) 

*問い合わせ riwkakant@yahoo.co.jp

海沼武史 Takeshi Kainuma CD『朝 -morning-』のbrochureはこちら(PDFファイル)

2011/02/10

道志村にて / Doshi



先日、舞台美術家の江頭良年・小山令子ご夫妻のお招きに預かり、ここ高尾からは車で約一時間半、山梨県は道志村へ行って参りました。
その村には、ご夫妻の2階建て別荘あり、僕ら夫婦はそこに1泊させてもらったのですが、もちろん、美味しい手料理の数々も・・・。久方ぶりに、温泉にも浸かっちまっただ。
で、道志にて、ちょこんちょこんと撮影し、そのあらましが上の動画。
音楽は、千葉伸彦のソロCD『トンコリ』から、“イフンケ ihunke ”です。

友たちは、いつも美しい。

2011/02/08

海沼武史CD『やどりぎ』/ New!! re-Master ③



Mistletoe / Takeshi Kainuma

01. ドアノ  doano   (4:36)
02. タビアト  tabiato   (7:16)
03. ハルト  harruto   (5:43)
04. クミネ  kumine   (5:49)
05. ヒメノ  himeno   (8:05)
06. ヨミエ  yomie   (7:15)
07. ツメアト  tsumeato   (7:16)



¥2.000(税込)  

*問い合わせ riwkakant@yahoo.co.jp

海沼武史 Takeshi Kainuma CD『やどりぎ-mistletoe-』のbrochureはこちら(PDFファイル)

illustrated by Tsukushi

2011/02/04

海沼武史CD『ザ・ピアノスケープ....』/ New!! re-Master ②


the Pianoscape across the historical code / Takeshi Kainuma

01. stills   (2:51)
02. sherpa   (3:07)
03. land   (5:12)
04. morningscape -孤独な散歩者のための夢想-   (5:09)
05. kalif   (10:28)
06. neo safari  (7:30)
07. sudeni -スデニソレハソコニアッタ-   (9:30)

¥2.000(税込)  

*問い合わせ riwkakant@yahoo.co.jp

海沼武史 Takeshi Kainuma CD『ザ・ピアノスケープ...-the pianoscape across the historical code-』のbrochureはこちら(PDFファイル)

2011/02/02

海沼武史CD『ニュー・トライブ』/ New!! re-Master ①


New Tribe / Takeshi Kainuma

01. site   (5:50)
02. sunkaino   (5:05)
03. new words dance music   (8:10)
04. Persepolis   (8:00)
05. primitive city   (9:00)
06. shift   (10:11)


¥2.000(税込)  

*問い合わせ  riwkakant@yahoo.co.jp

海沼武史 Takeshi Kainuma CD『ニュー・トライブ -New Tribe-』のbrochureはこちら(PDFファイル)

2011/01/15

海沼武史写真展 『セツナキ微笑』 / the Late Show


海沼武史写真展 『セツナキ微笑』

明後日1月17日(月)より、海沼武史の初期モノクロ写真が、麻布十番のウラカフェ「Cafe Permanente」の壁に飾られます。
写真は、作家自らの手によるオリジナル・ゼラチンシルバープリント、全未発表作品です。
そしてフレーミングは、額装ディレクター・中村明博によるものです。

パリのカフェをイメージした空間にて、深紅の美酒に酔い、ペルマネンテシェフお勧めの多国籍料理を愉しみながら、どうぞ素敵な夜をお過ごしください。


期間 / 2011年1月17日(月)~2月28日(月)
場所 / カフェ ペルマネンテ Cafe Permanente
時間 / 17:00~翌3:00 (定休日・日曜日 / 祭日・不定休)



2011/01/10

形の奥に在るもの、在ったもの / some-things


ある人から服をいただいた。

随分と、いい歳になって、他人様から服をいただくというのは如何なものか?という考えも、もちろん僕の中にはある。
しかし、単純な僕は、ただ嬉しい。ただ、懐かしいのだ。

その人から服をいただくのは、初めてのことではない。以前にも、そう、何度か、いきなり我が家に登場し、「武史さんに、(もし良かったら)、ちょっと服を持ってきたよ」と、その熊のような巨体を柔らかく、ちいさく、まるで山から大きな風を運んで来るかのように・・・。
お陰様で、僕はこの五年もの間、自分にあう服を探し、自ら買いに行くことを知らぬ。これはかなり有難い事。なぜなら、僕が選ぶ服のセンスは、どうもイマイチというか、駄目駄目なようだ。

六年ほど前、近所にある珈琲自家焙煎のお店「ふじだな」にて、この人と知り合いになった。仕事的には、まったく正反対のフィールドで戦っていらっしゃるこの人と、なにか具体的な接点はあるのかと問われても、実はまったく無い。
資本主義のど真ん中、逃げ隠れもできぬ、その世界では、たぶんかなり著名な方であり、僕より六つほど年長であられるこの方が、なぜ、僕のような社会的出来損ないと付き合ってくださるのか、また、さり気なく面倒を見てくださるのか、僕は恐ろしさのあまり分析することを禁じてしまう。
ただ、この人のお話は、いつも存在に響いてくる、僕に、ある大きな息吹きと呼べば良いか、生気ある、名づけようのない「モノ」として、僕の中で胎動をはじめ、やがて静かに炸裂する。いつだって冷たくなろうとする体内の血は、途端どくどくと、温かく、全身に広がる。陽気とは、あらゆる恐怖から目を逸らそうとしない者たちにそっと送られるギフトなのかもしれない。
「人」が見えてくる。職業の違いなど、まったく大した問題ではないことを、いつも悟らされる。

自分自身が、まったく至ってない事を、ただこの人が目前に在るだけで、ポンと、鮮やかに、強烈に気づかせてくれる一瞬、存在の妙技とは、なんと素敵な、この世の命の仕業なんだろうか。