以前、ある雑誌の表紙に“インテリアとしてのアート”という言葉を見かけた。
西洋風の住居空間の壁に、額装されたオリジナルプリントの写真が飾ってあった。
「(こんな風に)身近な場所で、あなたの生活空間にてアートに接してみては如何ですか?」と、さり気なくお洒落に演出された紙面だった。
特集が組まれていた。
読者は、たぶん「素敵ねえ、でもウチにはこんな広い壁が、アートを飾れるだけのスペースが無いから無理よねえ」がほとんどで(?)、でも「いや、小さいサイズの作品だったら可能かも・・・」。
美術館やギャラリー空間のみでアート作品に触れるのではなく、自分たちの暮らしの中にアート作品を引き寄せる、アートをより身近なものに、精神の贅沢とし、付き合ってゆく。これは確かに現在の日本より欧米の方が日常化しているようにも見える、が・・・。話が脱線した。
“インテリアとしてのアート”、もしくは“インテリアとしての写真”、日本人が、その住居内にアート作品を背伸びすることなく飾る、これは大いに結構な事だと思う。
僕も写真をやっているから、写真を買ってくださる方々が増えたら、これは悦ばしい事。また、そのプライベート空間に、公的な場所では得がたい、ナチュラルで、リラックスした雰囲気の中で、ひとり静かに、僕が撮影した場所、水や草や風景シーンなど、ゆっくりと堪能していただけるなら、非常にやさしい気持ちにもなれる。
ただ、アートというものは、決して“インテリア”ではないんですね。なぜなら、インテリアが、あなたの心の一等うつくしい在処を照らし出してくれるだろうか?
「あなたは今まさに此処に存在している」「あなたには無限の可能性がひらかれている」等々、それぞれの存在の一番深いところにある、眩いばかりの人間存在の秘密を、その意識のからくりを、「美=個=全」という体験のさわりを、さり気なく開示してくれた事があっただろうか?
アートというのは、体験するものです。なので、インテリアとしての“ポスター”というのはありだが、インテリアとして成立してしまうアート作品とは、たんに壁に飾られた四角いイメージであり、そもそも「アート」とは呼べないんですね。
もちろん写真は、アート、芸術ではありませんが、人々に“芸術”体験を与えうるメディアであります。で、もしかしたら絵画以上に「わたしは今、此処に生きている」というあの美的次元における「直知」を、非常に生々しい形で、肉感的に体験させてくれるかもしれません。
6月3日(金)からはじまる額装ディレクター・中村明博との展覧会。そもそも額装者または額職人とは裏方存在であり、決して作家の仕事と同列に扱われることはありませんでした。
翌日4日(土)には、僕の住居兼事務所を開放し、ささやかなレセプション・パーティをおこないます。彼との共作、作品を、20点ほど一挙公開いたします。
住居空間を開放し、この日のために、インテリアではない写真、作品を壁に飾りつけ、見ていただくというのは、僕もはじめての経験、テーマ、コンセプトは「家の中の美」ではなく「美の中の家」です。
p.s.先月の「床絵美xSANPE」コンサートの一週間ほど前からTwitterをはじめました。ときにつぶやいております。http://twitter.com/#!/riwkakant