2024/09/19

写真集のメイキングレポート⑰


 〜ファッションとアートについて〜

先日、たまたまマルタン・マルジェラという気鋭のファッションデザイナー(だった)の記事をInstagramで見かけ、現在彼は何をしているのか気になり調べると、数年前に現代美術のアーチストとして洋服ではない純粋作品をどこかのギャラリーで発表していた。それでその展示された作品画像を数点、Googleで見ましたが、『メゾン・マルタン・マルジェラ』のファッションデザイナーとしての仕事の方が断然良くて、ふと、ファッションとアート、ファッションデザイナーと美術家との違いについて、何でもかんでも一緒くたにコラボさせ、そこにある何か決定的な違いを見過ごしがちなので、少し書いておこうかと思いました。

ファッションブランドの世界は外から見ている分にはとても興味深く、また彼らの仕事に触れるのは、正直、現代美術のアーチストの作品を見るより断然面白い。特にハイブランドが打ち出すイマジネーションの躍動と緻密な職人芸の融合、隙のないあの手この手の商品戦略にはいつも感心させられる。ただ、僕は自分が着るものについてかなり無頓着で、あまりこだわりもなく、今持っている服もその半分以上が先輩からドサっといただいたもの。

今までファッションデザイナーで凄い才能、感性だなぁと衝撃を受けたのは故アレキサンダー・マックイーンの仕事ですが、もちろん彼が天才ファッションデザイナーであったことに異論を唱える者はいません。しかし彼がもし洋服ではなく、絵でも写真でもなんでも良いですが、違うジャンルで勝負できたのか、洋服デザインと同水準の作品を提出できたのかと言えば、それは無茶な相談です。
なぜなら、ファッションの世界はどこまで行っても見た目、外見、見栄えの追求であり、人間の生の本質への眼差し、通常の視覚の向こう側へ旅立とうとする潜在的な意志は封印するからです。逆にアート、芸術のフィールドでは「人間はどこから来てどこへ行くのか?」という存在論的な問いや、なぜ世界は在るのか?という根源的な命題への接近を可能にし、またその答えをも示唆します。
アートもファッションも、まず「美とは何か?」という問いから始めるのですが、ファッションの世界では、人の眼を、太古の時代では神の眼を意識し、「自分は彼らにどう見られるか?」という身体的外観に関心が向き、「人間または宇宙存在そのものの根拠や意味について根源的・普遍的に考察すること」や、眼に見えない世界、つまり〈心の美〉についての探求は放棄せざるを得ません。
アートは、従来の知覚を清め、知覚を超えた世界の美を予見させますが、ファッションは、最終的には知覚の錯乱へと行き着きます。なので本来は、ファッションとアートを同列に並べることは不可能なことです。
もちろんマルセル・デュシャンやアンディ・ウォーホルのような作品が一流アーチストの仕事として認知されている状況では、アートもファッションもさほど変わりませんが、そもそも現代アートがその領地から〈美=真理〉を追い出し、見た目の奇抜さと作品サイズ、アイデアの意外性と技法や素材の真新しさ等々、外観や仕上がりばかりに注目し、シーンの中心を担うようになったのはたかだか1960年あたりに始まったことに過ぎません。

ファッション、アパレルとは、人間の身体を隠すもの、包み込み、他者にどのような想像的刺激を与えれば魅了しうるのか、時代時代の流行り廃りを考慮した上での実践ですが、実は「人間の"素"は醜い。心そのものを他者が見ることが出来ないのは幸いだが、実は人間の本質、本性とは醜悪である」を前提とし(これは現代アートもそうですが)、ゆえ外見を着飾ったりデコレートしなければ人や神の御前には立てぬと言う、「あるがままの自分そのもの」への嫌悪、自己否認がそのベースには隠されています。
しかし本来のアートの役割りとは、「あるがまま」の自分とは、人間の本性、本質とは、そもそも美しいのでは?という普遍的な場所、視座を明らかにしようとします。そしてアートが明かす美とは、ファッションが誘発する「自分は特別である、他人とは違う、これを着るわたしは特別になれる」という変身願望への強化ではなく、すべてが美であり、私が感じる美しさとは、あらゆる人間、生命に浸透している、つまり私たちは「美から生まれた」という直知へと誘います。そしてこの「美から生まれた」という絶対的な真理を知らない、持たない人間は誰一人存在しないのです。なぜなら、それを知っているが故に、その美と自分自身を比べ、自己否定、自己嫌悪は始まるからです。ここに意識誕生の、放蕩息子の譬え話やビックバンの秘密はありますが、ファッションとアートの目的、意図や方向性の差を明瞭にしようとする試みから逸脱しますので、この辺で……。 
ただし、ファッションデザイナーが持っている服飾への愛、アーチストが抱く絵画や彫刻、自分が制作するものへの愛、ガラス清掃員が窓ガラスをピッカピカにすることへの愛、交通誘導員がごった返すクルマがスムーズに流れてゆくことへの愛、そして神主さんが抱く神への愛などなど……、この人間の内側で起こる「愛そのもの」、愛それ自体は、決して比べることが出来ないので、◯◯への愛という、外的な対象やジャンルの差は、あまり重要なことではないのでしょう。と、アートとファッションの視覚意識の方向性の違いについて言及しながら、そこはそんな目くじら立てる必要もないんじゃね、って所に来てしまいました。
たぶん今回の与太話の結論としては、究極の愛とはまさに「愛への愛」なんじゃないかな?
今日はそんなことを考えたのでした。

愛と美、そして真理とは、同意語だったんですね。

 


2024/09/17

写真集のメイキングレポート⑯


 (余談)

20代の頃、4〜5年ほど写真家の助手をしていましたが、ある時、この師匠に僕の身なりについてこう言われたことがあります。
「海沼、もっと綺麗なカッコをしろよ。俺が恥ずかしいじゃないか(笑)」
「社交の場で、普段着ではなく正装するのは、目立たないようにする為だよ」
当時、師匠はプライベートフォト以外にファッションや建築関係の撮影、依頼仕事をしていましたが、いつも破れたジーンズとシワだらけのTシャツ姿で登場する僕の屈折した自意識をズバッと射抜いたわけです。
とにかく鋭い方で、僕はこの師匠から写真はもちろんのこと、写真以外の倫理やマナーについても様々の角度から教えてもらいました。
前回お会いしてからすでに3年ぐらいが経ちましたが、なかなか気軽には会いに行けない方です。辻向かいのちょっと感じのいいカフェへチョコレートパフェを食べに行こうかな〜ってノリでは決して会いには行けない。ただ、今回皆さんのご厚意により生まれる2冊の写真集だけは、恐る恐る、是が非でも、ズン!と根性入れて手渡しに行かなければと思うのです。
写真家としての僕の土台を作ってくれた恩師、でもなぜか気が重い。まだ死んだり病気などして弱ってなければイイのだが。この世ではなくあの世で手渡し、なんてふざけた考えが出てきたりもしますが、会いにゆかなければ、2冊の写真集は直接手渡さなければ、寄付してくださった皆さんには郵送なので大変失礼かも知れませんが、絶対に後悔するなと、今思うのです。

 


2024/09/14

写真集のメイキングレポート⑮


 〜プリントについて〜

写真にとって不可欠な撮影という行為は、具体的な対象物を必要とします。有形の被写体なくして撮影および写真表現は成立し得ません。つまり、持続する時間軸での作業工程の痕跡を残す絵画とは違い、写真は、被写体を前に、シャッターを切るという一瞬の行為を通じて、究極的には「被写体(世界)は私である」もしくは「被写体(世界)は私の一部である」という形而上学的瞬間と立ち合うこととなります。

と、相変わらず大袈裟なことを書いてますが、ちなみに僕は人の写真を見るより絵画鑑賞の方が好きです。
写真展は、まだ20代30代の頃に「印刷物の写真では見えない何かをオリジナルプリントで確かめに行かねば!」と、ちょくちょくギャラリーや美術館へ足を運びました。たぶん著名な写真家たちのプリントはその頃ほとんど見ていると思います。が、今となっては絵画展の方が断然面白い。
ただ、写真家のオリジナルプリント、手焼きとは、その写真家の個性や癖、匂いのようなものまで定着されているので、やはりその写真家の特質により近づきたければナマ写真を見るしかありません。オリジナルプリントが持っている情報量は、印刷写真やweb上の写真とは比べ物にならないし、オリジナルプリント特有の呼吸感とは、写真家の息づかいみたいなものだから、写真家自らの手焼きを見る機会、経験は無いより持っといた方が良いです。より写真表現もしくは写真鑑賞の楽しみの幅が広がりますので。
たとえば、ロバート・フランクのラフなんだけれど淡い優しげなトーンとか、荒木経惟のプリントには女性の肌の艶かしさを出すための工夫が、そして森山大道の確信と直感に満ちた大胆な焼き込み、ハリー・キャラハンのクラクラするような精密なプリント、ロバート・メイプルソープの「なんだよ、プリンターにお任せかよ」等々、印刷物やネット上の写真では分からない彼らの作業現場の光景が、手作業や思いの深さがありありとオリジナルプリントからは伺い知ることができるのです。
もちろんデジタルカメラの時代が到来し、フィルムや印画紙の生産は縮小され、やがて写真家のオリジナルプリントを愉しみ、味わい、議論する眼玉たちもほとんど居なくなり、新発売プリンターの性能ばかりが話題をさらい、やがてこれも下火となり、「あの〜、写真家って、撮影はもちろんのこと、そのプリントにだって個性が滲み出てしまうもんだよ。たとえデジタル、インクジェットのプリントでさえね」と、まぁ、別に嘆いてる訳ではありませんが。
いずれにせよ、モノクロ時代の現像液によるプリントも、現在のインクジェットプリンターによるプリントも、僕にとっては同じことで、一枚の白い紙の上に写像が現れて来るその最初の瞬間に立ち会えることの歓び、そしてそこに居合わせなければ、その像、写真の現場に身を置いた撮影者だけが知っている、見て、感じた何か気配のようなものは入り込まないと、なにやら非科学的の次元のこと?量子力学的な不思議な現象について僕は少なからず確信を持っています。なぜなら体験的に、写真家が自ら焼いたプリントと、いわゆる職業プリンターらが焼いた写真との明らかな違いを何度も見て、確かめたことなので。ちなみにダイアン・アーバスのプリンティングなんかはかなり雑な方で、いわば下手くそなんですが、それでもそのせっかちさ、生き急いでいる感じがなんとも彼女の切迫した生き様を表していて、プリンターらの優等生的な手焼き写真にはない不良性とライブ感が、アーバスのオリジナルプリントからはビシビシ伝わって来ます。
写真家のプリントとは、「この写真を撮影したのは私。そしてその撮影現場の空気感、トーンを知っているのも私。なぜってこの身体に刻み込まれているから」が、定着されているのです。
では、印刷所に任せざるを得ない写真集の中の印刷された写真とは?
これは展示物として1点1点の写真をプリントする際の気構えとは、厳密に言って、写真家の眼と意識の力配分がやや異なって来ます。
プリントの場合は、この写真、このカット1点だけで射抜くのだ!という気概をずっとキープし、1枚1枚精緻に確認しながらプリントしますが、写真集の印刷された写真の方は印刷所によって色や調子などの得意不得意があり、色校正による詰めにも限度があります。また写真集ならではのページめくりという行為が、視覚をイメージの連続性の中に巻き込むので、1枚1枚の写真のトーンの合わせ方を1点プリントだけで見せる際とは微妙に変えます。なので強いて言うなら、1点1点で見せるオリジナルプリントを写真家のナマ演奏!だとするなら、写真集の方は「写真家の楽譜」に近いかも知れません。

まぁ、でも、かなりマニアックな話です。

 


2024/09/12

写真集のメイキングレポート⑭

 

〜音楽についての雑感〜

「究極の音楽とは、音楽が始まる前の煌めくような自在さと、音楽が終わった後の深い静けさ、沈黙の豊かさを気づかせる為に存在する。」(ある作曲家の言葉)

よくコンサートで、オーケストラが演奏を始める前に各楽器の奏者らが音合わせをする1〜2分の時間があります。その際に会場内に鳴り響くサウンドは方向性を持たず、てんでばらばらで、無調音楽とも呼べない、それでも生楽器が持つ艶やかな生きた音色が蠢く瞬間ですが、僕はその様々な楽器が放つ音群の響き、大勢の演奏者の音合わせを聴いている時間がとても好きです。

そしてチューニングが終わり、指揮者が登壇し、拍手が湧き起こり、作曲家が描いた音楽作品を、奏者らはスコアと指揮棒を見つめ、指揮者は奏者らの意識が自分に集中していることを確かめ、始まりのタイミングに注意を払い、そして客席にいる鑑賞者たちも無闇に音を立てぬよう、コンサート会場では、そこに参加した全員がその身体と心を集中させる。

そして演奏が始まる。

音楽、オーケストラ、演奏家たちの協働によって生み出される壮大な響き……。そこで繰り広げられる時間芸術である音楽作品は、作曲家が「あーでもない、こーでもない」と、苦心の末作り出したもの。
だが、一体なぜ、ある個人の頭の中で生まれた音楽に、多くの人間が、楽器奏者一人一人がなぞり、従わなければならないのか?

「自分の内側にすでに描かれたスコア、それに触れる者は神を知ることになるだろう。」
これは誰の言葉だったか……。

まず音を出す。そしてその音を聞く。次なる音がやって来る。音を追い、音に合わせ、音と重なり、さらなる音を紡いでゆく。
この、何処からやって来るのか定かではない音を掴み、音を楽しむという自立的な歓び、この無邪気で独りよがりの冒険を捨ててまで、他人が描いた世界観、作品を再現するために練習に励むとはどういうことか。
もちろん誰かの曲を演奏する歓びというものはあるだろう。作曲家が作り上げた音楽作品を自分の身体に染み込ませた演奏技術によって再現し、聴く歓び。だから楽譜とは再現されることを可能にする経典。演奏とは写経のようなものか?

音楽をする行為とは、音楽を聴くという行為と地続きだから、実は演者も聴者も同等ですが、そもそも音楽とは人間が内的な自由を想起する、内なるスコアに触れる為のもの。人間の本来の姿、本質が、「自由」であったことを想起するためのトリガーのひとつだ。それは、数多の経典と類似した目的を持っている。つまり、音楽作品や経典は、目的ではなく手段としてのみ、その存在理由がある。

フィリピンの作曲家ホセ・マセダは多分その事に気づき、彼なりのアプローチで作曲家としての実践を続けたが、自分の音楽を具体化するために「多数の演奏者を必要とした」という意味では、やはりクラッシック畑の人、オーケストラの消滅を吟味する所までは行かなかった。

21世紀は、飛躍的なテクノロジーの進展により、録音技術、電子楽器、コンピュータなどが誕生し、それこそたった1人で作曲と演奏とエンジニアリングを兼用することを可能にした。さらにインターネットの普及により地球の裏側でごちゃごちゃやっている見知らぬ人々の音楽を聴くこともできる。

だが、音楽を作る、作曲するとは?音楽を聴くとは?この問いを問い詰め、手段として存在している音楽の本来の目的を意識化し、音楽を制作している者や音楽を聴いている者はまだ僅かだ。

「音楽の究極的な目的は、神の栄光と魂の浄化に他ならない。」(ヨハン・ゼバスティアン・バッハ)


※昨年の8月、鬱のド暗闇の底で苦しみ喘いでいた僕の前に彗星の如く現れ(笑)、ものの見事に引っ張り上げてくれた方が、昔作った僕の音楽について自身のブログに書いています。ご興味のある方はこちらへ。



写真集のメイキングレポート⑬

〜西行について〜

12世紀の歌僧として有名な西行の辞世の句に「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」というのがありますが、「虚空ノ如クナル心ノ上ニオイテ、種々ノ風情ヲ色ドルト云ヘドモ更ニ証跡ナシ」と断じている者の心、証跡ナシとは、現象世界(種々の風情)が確かに実在している証拠となる痕跡はないのだと。そんな彼の眼差しから出た言葉であることを踏まえて先の句の内に入ってゆくと、この和歌の裏側の西行は全く子供のような無邪気さと笑いに包まれている姿が見えて来ます。つまり、真面目さを気取りながらも、そこには彼特有の輝くようなユーモアが。
西行は、四季折々の風情を詠んだ歌人として知られていますが、「自分が歌を詠むのは、遥かに尋常とは異なっている」という明恵上人に洩らしたこの言葉、この感慨には、この世界の全ての現象、事象は移り変わり、そこに恒常不変なるものはないと言う空観(emptiness)があるようです。
では、なぜ歌を詠むのか?それは花や雪、月という無常なる対象を通して不滅なるモノや事を歌の中で、歌を通して甦らせようとしたからです。なぜか?歌うことが、まさに彼にとって至福の瞬間だったから。
僕が西行をとても身近に感じるのは、たぶん同じような視座を持って写真に取り組んで来たからかも知れません。

西行とは、この世に生きる、表現者ならば当然のこと、あらゆる人間がやがて通らざるを得ない天上の歌が遍満する欄干のない橋だと思います。
 

 


2024/09/11

写真集のメイキングレポート⑫


 〜芸術作品と真理について〜

芸術作品の限界とは、それが人間の知覚機能に依存している点です。
たとえば、眼の見えない者にとってダ・ヴィンチの「モナリザ」は存在しません。耳の聞こえない者にバッハの「フーガの技法」は存在しない。さらにアフリカやアマゾン奥地の村で生まれ育ちそこから一度も他所へ出たことない人間たちにモナリザやバッハは存在しません。
つまり「アートワールドの観衆に提示するために制作された種類の人工物」である芸術作品とは、ある限られた世界、限られた人間、限られた知覚者たちにしか歓びをもたらすことが出来ないのです。
もし絶対的、普遍的真理があるとするなら、それは芸術愛好家にとっても、アフリカやアマゾンの原住民にとっても、等しく享受され得るものでなければ真理、真実とは言えません。真理とは、環境の違いや人種の差、身体能力もしくは身体的な障害や知覚レベル、思考能力、経験値などの差、物理的な条件等々はまったく意に介せず、あらゆる人間に公平にもたらされるものでなければならないのです。故に、芸術作品とは、真理そのものではありませんが、その作品を鑑賞する者の意識に、知覚を通じて真理を呼び覚ます役割は担っています。
真理は、時代や状況の推移に影響を被ることなく、永遠であり、人間の思考や感情、知覚の制限なども受けないはずなのです。


では、話しを飛躍させて、真理にとって人間の、あらゆる生命体の死とは何か?
時間と空間が混ざり合ったこの地球、宇宙で起こる〈死〉とは、人間の知覚に依れば「事実」かも知れません。が、絶対的な真理からすれば、これは「真実」とは言えません。なぜなら、真理とは永遠の謂いであり、死は水平の時間軸上の現象であり、空間という場(これは量子の世界でも同じ)を必要とするからです。
ではなぜ死があるように見えるのか?もしくは死を知覚するのか?
それは、人間の知覚自体が永遠なるものではなく、あくまで真理を垣間見るためのジャンプ台、限定された道具だからです。

時間や空間を必要とする人間の芸術作品とは、たぶん真理を映し出す鏡、美しい影なのでしょう。
真理を指し示す〈標〉としての芸術作品。
ただ、芸術作品を特別視、重要視しなくとも、あの空、あの山、海も川も、そしてたぶんあなたも僕も、あらゆる森羅万象が織りなす形象すべてが真理からすれば標であり鏡と言えます。

この夢幻的世界、この世界内では、身体に縛られた時空間上の知覚を通じて真理に触れる、呼び起こす機会を人間に鮮やかに提示することが本来の芸術家の仕事ですが、実は最も大切なことは、芸術作品という現象世界に現れた知覚の産物ではなく「芸術体験」の方です。
自分たちの内と外を無効にする〈真理〉を体験すること。なぜなら、それは時間と空間から解放される瞬間であり、死や人間であることからも〈自由〉になることだからです。

では、どこに悲しみがあるのか?

芸術作品とは、〈真理〉への接近、これを可能とする非二元的代替物であり、芸術体験とは、まさに真理を知る、思い起こす再生の瞬間なのです。 

(と、一気呵成に書いてみたが、まとまんねー)


2024/09/08

写真集のメイキングレポート⑪

 

〈写真集のメイキングレポート〉と題して、その時々に思いついたことをつらつら書いていますが、昨夜「今度ブログに親父の写真を載せようかと思ってんだよね」と、只今写真集のデザインワークに専心中のつくしに何気なく振ったら、「え?!写真集に入れない写真を載せてもイイの?」と返され、「あれあれ?ブログのメイキングレポートに付けた写真は写真集には載せんけど」。

今回の2冊の写真集には人物写真、ポートレートは1枚も出てきませんが、なんとなくこのブログ、経過報告的な文章に人物写真をアップしてしまうのは、たぶん、言葉にするとダサいな、まぁ、人から人、人と人、その関係性から生まれる何かだから。

このブログのメイキングレポート⑥で使用した写真は土建屋の社長で、ときおりウチに絶品生卵のお裾分けに来る人。
メイキングレポート⑨の女性の方は、今年の6月に逝去されたつくしのお母さん。「葬儀用に必要!」と言われ、ふと「なんか随分前に撮影したよな〜」と思い出し、慌てて写真ストックの中から引っ張り出し、無事葬儀に使われたもの。

自分が撮った写真が葬式に使われるのはかなり変な気分だけれど、「あぁ、確かはじめて葬式に使われたポートレートは親父の写真だったよなぁ」と懐かしくなり、先日イルフォードの印画紙の箱の中に無造作に放り込まれた過去のストックを物色してみたら、あらら、1枚のプリントが出てきた。

だいたい葬式に使われるポートレートは総じて不吉で、別に故人の顔写真を最期に飾る必要なんてあるんだろうかと訝しく思うタチなので、来るべき葬儀のためにある人間のポートレートを撮るなんてことはあり得ない。「なになにの為に撮っておこう」と言う感覚がそもそも僕には無いし、それはとても悲しい撮影動機のような気もする。もっとも日本の葬式の在り方、その仕組みや段取りについてもめちゃ懐疑的……。
ただ、自分が撮ったポートレートが葬式に使われるのは、親父の時にはまったく気づかなかったけれど、つくしの母さんが亡くなって、葬儀場で遺影として改めてその写真に触れた際にはあまり嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、光栄に思った。

故人を偲んで、というのはまるで違う。
追悼はあくまでも個人的なものであり、自分の意識のある内は故人と共に在り、だからその人間の一等美しい表情を胸に置いておきたい。

 

⁂今回の写真集のデザイン担当つくしのブログはこちら

2024/09/05

写真集のメイキングレポート⑩


〜ブックデザインについて〜

本の装丁、写真集の表紙、中のレイアウト等は、僕がアイデアだけ出して、あとはカミさんにお任せします。

ブックデザインや本の体裁は、こだわろうと思えばいくらでもこだわれるのですが、予算の都合上、高級志向はほぼ放棄。
たとえば、写真が印刷される紙はマットにするのか、それとも半光沢?その紙の種類は?質感、手触り、厚さは?ブックカバーは付けるのか?箱入りの豪華本にするのか、思い切って桐の箱に入った写真集は?と、キリがありませんが、今回の僕の2冊の写真集に関して言えばそれはあまり本質的なことではなく、逆に、与えられた条件下でどうやったら効果的なモノを作り出せるのか、そのイメージの到来に心開いている方が面白い。

ちなみに世の中のパッケージデザインに触れてひどく感心したことが2度ほどあります。
ひとつは、ニューヨークに住んでいた頃、友人の奥さんを通じて「ティファニーブルー」を始めて目にした時。
2度目は、カミさんの友人からのフランス土産アラン・デュカスのチョコレート、ロゴがデボス加工されたピエール・タションのパッケージデザインに触れた時。
この2つは、いわゆる本の装丁、ブックデザインではありませんが、中身、内容、意味を包み込む身体、入り口やドア、お店の看板に相当すると言う意味では同じこと。素晴らしい仕事、感覚だなぁと感嘆しました。

友人や仕事仲間、理解者からの寄付金を募り、今回のような形で写真集を作らせていただくのは、これが最初で最後となりますが、写真集の内容が内容だけに、またその経緯ゆえ、装丁とかパッケージデザインという外装、外ズラにこだり過ぎるのはちょっと違う、カッコ悪いなと感じるのは、たぶんに10代の頃に聴いていたロック音楽の影響によるもの。

確か70年代後半のカリフォルニアを舞台にしたアメリカ映画の中に、ときおり新聞配達員が新聞の束をドサっと玄関先に投げ込む、朝の訪れを伝えるシーンがあります。早朝の柔らかな空気と瑞々しい朝日が射す庭付きの一軒家が立ち並ぶ長閑な通りを、新聞配達員が走りながら、郵便ポスト下の芝生の上に小気味よく新聞を放り投げるシーン。日本では見かけない光景ですが、そんな潔さで、皆さんの元へ2冊の写真集が届けられたら「なんかいいなぁ」と、勝手に思っています。

 


2024/09/02

写真集のメイキングレポート⑨

 

引き続き、写真集のための写真の並べ方、編集について書きますが、そもそも編集とは、肝心の1枚1枚の写真に力が無ければ、いくらどう並べ替えたところであまり実りはないです。

写真集のための編集作業とは、あくまでも1枚1枚の写真を丁寧に選び抜き、どのような展開、ページめくりをすれば撮影者の世界観が読者により伝わり易くなるのか、ここが肝心なところです。
1枚1枚の写真のトーン、感情、音色を読み、数珠玉のように繋いで、そこから生まれるハーモニーに乗り、時に切断し、これはリズムとなり、ある一定の緊張感を保ちながら、それぞれの写像が無意味な潰し合いをしないよう見守り、偶然性には心開き、そこに直感を呼び込み、遊び心やユーモアも大事にする。そして総体として、あまり押し付けがましくならないようにその写真家の歩みを描くことに、その醍醐味はあります。
ただし、こういった写真集、編集の嗜好性は、僕の好みと言えば好みなのです。


たとえば、写真編集の妙技と言いますか、僕が今まで腐るほど見た様々の写真家たちの写真集の中で1番「見事だな〜」と感じたのは、ロバート・フランクの『アメリカ人 "Les Americains" 』(1958年)ですが、フランクの写真表現自体は、私的な物語り性を濃厚に帯びてしまうので、僕の写真表現のスタイルとは異なります。

僕がいわゆる写真を使っての物語り、物語性にあまり興味がないのは、人類はそれこそ天文学的な数の物語をすでに持っているという歴史的事実と、物語りは時間の存在を容認してはじめて成立するという物語の条件についてやや違和感を持っているからです。


写真とは一瞬の出来事の記録、表現なので、この一瞬、刹那とは、〈永遠〉を開示しうる唯一の時間となります。写真は映画と違い、過去から未来へと経過する横軸の時間を切断する「斬り込み」を可能とするメディアなので、瞬間と瞬間を繋ぎ、時間経過があるように見せかけつつ、目指すべきは〈永遠〉であり、これを垣間見せる瞬間を写真は提示できると考えるからなのです。

あ、もちろん物語りの内に〈永遠〉がよぎる瞬間はあります。

 


2024/09/01

写真集のメイキングレポート⑧

 

昨夜は、写真集の編集作業が大詰めを迎え、「ん、このまま行った方が良いな」と、夜12時ぐらいまでPCモニターの前で粘り、僕がらみの作業をあらかた終わらすことができた。

これはモノづくりをして来た人、いや、職業人には分かると思うが、「今がダッシュ!」というゴーサインはたぶん本能的なもの。が、その合図はこれまでの長い経験によって裏打ちされている(と、思いたい)。

写真の編集、画像の微調整は、その日のコンディション、眼の状態だったり、光源、自然光や部屋の明かり、写真の内容等、諸々の影響を受ける。

昨夜は、よく見えた。もちろんそれがやって来るまで実はずっと泥棒や張り込みデカのように待っていたのだが。

で、満足感と疲労感がジョイントする布団の中で、ふと若い頃の暗室作業を思い出していた。

当時は、昼間にフィルム現像、夜は紙焼きと、かなりシンドイ地味な作業をしていたな~と。

暗室用レッドライトの不気味な暗がり中で、フツーに明け方近くまでプリントしていた。ザ体力!今じゃ考えられない。そんな写真にまつわる作業を15年ぐらい続けて、デジタルの時代が到来し、フィルム現像タンクや超どぎつい化学薬品、さらに暗闇の中での液体まみれの作業から解放された時には、実はせいせいした。

もちろん、そのモノクロフィルム、ベタ焼き、白黒プリントは散々やって来たで、そこで養われた微細な視覚はアナログ、音で言ったらレコード体験?そーいった経験を通過した上でのデジタルだから、アナログ経験を通過していない人たちよりアナログの恩恵が身体に染み込んでいるんで感覚的には多様でしなやか。()

デジタルに移行して、写真をPhotoshopでごちゃごちゃ弄らないのもモノクロのプリント、紙焼きをして来たがゆえ。さらにデジタルに移行し、あまりモノクロ写真を撮らなくなってカラー写真ばっかもまたそれが理由。

写真は、この世に誕生してまだ200年ぐらいの新参モンだが、その写真がどのような工程で上がって来たのか、アナログ工程か、それともデジタル?ここら辺にはさほど執着していない。どっちだって良いのだ。上がり、写真がどうかだけ、ポイントは。時代の道具を使って時代を越えるような予感をその作品の中に込められるかどうかだけ、1番重要なのは。

p.s あ、普段は夜の10時ぐらいさっさと寝ます。