2024/09/12

写真集のメイキングレポート⑭

 

〜音楽についての雑感〜

「究極の音楽とは、音楽が始まる前の煌めくような自在さと、音楽が終わった後の深い静けさ、沈黙の豊かさを気づかせる為に存在する。」(ある作曲家の言葉)

よくコンサートで、オーケストラが演奏を始める前に各楽器の奏者らが音合わせをする1〜2分の時間があります。その際に会場内に鳴り響くサウンドは方向性を持たず、てんでばらばらで、無調音楽とも呼べない、それでも生楽器が持つ艶やかな生きた音色が蠢く瞬間ですが、僕はその様々な楽器が放つ音群の響き、大勢の演奏者の音合わせを聴いている時間がとても好きです。

そしてチューニングが終わり、指揮者が登壇し、拍手が湧き起こり、作曲家が描いた音楽作品を、奏者らはスコアと指揮棒を見つめ、指揮者は奏者らの意識が自分に集中していることを確かめ、始まりのタイミングに注意を払い、そして客席にいる鑑賞者たちも無闇に音を立てぬよう、コンサート会場では、そこに参加した全員がその身体と心を集中させる。

そして演奏が始まる。

音楽、オーケストラ、演奏家たちの協働によって生み出される壮大な響き……。そこで繰り広げられる時間芸術である音楽作品は、作曲家が「あーでもない、こーでもない」と、苦心の末作り出したもの。
だが、一体なぜ、ある個人の頭の中で生まれた音楽に、多くの人間が、楽器奏者一人一人がなぞり、従わなければならないのか?

「自分の内側にすでに描かれたスコア、それに触れる者は神を知ることになるだろう。」
これは誰の言葉だったか……。

まず音を出す。そしてその音を聞く。次なる音がやって来る。音を追い、音に合わせ、音と重なり、さらなる音を紡いでゆく。
この、何処からやって来るのか定かではない音を掴み、音を楽しむという自立的な歓び、この無邪気で独りよがりの冒険を捨ててまで、他人が描いた世界観、作品を再現するために練習に励むとはどういうことか。
もちろん誰かの曲を演奏する歓びというものはあるだろう。作曲家が作り上げた音楽作品を自分の身体に染み込ませた演奏技術によって再現し、聴く歓び。だから楽譜とは再現されることを可能にする経典。演奏とは写経のようなものか?

音楽をする行為とは、音楽を聴くという行為と地続きだから、実は演者も聴者も同等ですが、そもそも音楽とは人間が内的な自由を想起する、内なるスコアに触れる為のもの。人間の本来の姿、本質が、「自由」であったことを想起するためのトリガーのひとつだ。それは、数多の経典と類似した目的を持っている。つまり、音楽作品や経典は、目的ではなく手段としてのみ、その存在理由がある。

フィリピンの作曲家ホセ・マセダは多分その事に気づき、彼なりのアプローチで作曲家としての実践を続けたが、自分の音楽を具体化するために「多数の演奏者を必要とした」という意味では、やはりクラッシック畑の人、オーケストラの消滅を吟味する所までは行かなかった。

21世紀は、飛躍的なテクノロジーの進展により、録音技術、電子楽器、コンピュータなどが誕生し、それこそたった1人で作曲と演奏とエンジニアリングを兼用することを可能にした。さらにインターネットの普及により地球の裏側でごちゃごちゃやっている見知らぬ人々の音楽を聴くこともできる。

だが、音楽を作る、作曲するとは?音楽を聴くとは?この問いを問い詰め、手段として存在している音楽の本来の目的を意識化し、音楽を制作している者や音楽を聴いている者はまだ僅かだ。

「音楽の究極的な目的は、神の栄光と魂の浄化に他ならない。」(ヨハン・ゼバスティアン・バッハ)


※昨年の8月、鬱のド暗闇の底で苦しみ喘いでいた僕の前に彗星の如く現れ(笑)、ものの見事に引っ張り上げてくれた方が、昔作った僕の音楽について自身のブログに書いています。ご興味のある方はこちらへ。



1 件のコメント:

Uchida kazuo さんのコメント...

「だが、音楽を作る、作曲するとは?音楽を聴くとは?この問いを問い詰め、手段として存在している音楽の本来の目的を意識化し、音楽を制作している者や音楽を聴いている者はまだ僅かだ。」

私なりに感じるのは、人は何もしなくても幸せになろうとするし、幸せであろうとする姿を本質とするなら、「音楽」は「慶び」でしかないのだと思います。

音を鳴らしたくなる、音を聴きたくなる、もっとしっかりと音を表現したくなる、もっとちゃんと音を聴きたくなる

それがいつしか楽器の性能を向上させることが目的になったり、たくさんの人に聞かせることが目的になり、商売に変化した結果、人は「音楽」が分からなくなったのだと思います。

「音楽の根源は愛(私的には幸せ)の衝動」なのだろうと。

音楽には目的も意図も無い、そんな感じです。

素人の妄想なので適当でお願いしますm(__)m