2024/09/11

写真集のメイキングレポート⑫


 〜芸術作品と真理について〜

芸術作品の限界とは、それが人間の知覚機能に依存している点です。
たとえば、眼の見えない者にとってダ・ヴィンチの「モナリザ」は存在しません。耳の聞こえない者にバッハの「フーガの技法」は存在しない。さらにアフリカやアマゾン奥地の村で生まれ育ちそこから一度も他所へ出たことない人間たちにモナリザやバッハは存在しません。
つまり「アートワールドの観衆に提示するために制作された種類の人工物」である芸術作品とは、ある限られた世界、限られた人間、限られた知覚者たちにしか歓びをもたらすことが出来ないのです。
もし絶対的、普遍的真理があるとするなら、それは芸術愛好家にとっても、アフリカやアマゾンの原住民にとっても、等しく享受され得るものでなければ真理、真実とは言えません。真理とは、環境の違いや人種の差、身体能力もしくは身体的な障害や知覚レベル、思考能力、経験値などの差、物理的な条件等々はまったく意に介せず、あらゆる人間に公平にもたらされるものでなければならないのです。故に、芸術作品とは、真理そのものではありませんが、その作品を鑑賞する者の意識に、知覚を通じて真理を呼び覚ます役割は担っています。
真理は、時代や状況の推移に影響を被ることなく、永遠であり、人間の思考や感情、知覚の制限なども受けないはずなのです。


では、話しを飛躍させて、真理にとって人間の、あらゆる生命体の死とは何か?
時間と空間が混ざり合ったこの地球、宇宙で起こる〈死〉とは、人間の知覚に依れば「事実」かも知れません。が、絶対的な真理からすれば、これは「真実」とは言えません。なぜなら、真理とは永遠の謂いであり、死は水平の時間軸上の現象であり、空間という場(これは量子の世界でも同じ)を必要とするからです。
ではなぜ死があるように見えるのか?もしくは死を知覚するのか?
それは、人間の知覚自体が永遠なるものではなく、あくまで真理を垣間見るためのジャンプ台、限定された道具だからです。

時間や空間を必要とする人間の芸術作品とは、たぶん真理を映し出す鏡、美しい影なのでしょう。
真理を指し示す〈標〉としての芸術作品。
ただ、芸術作品を特別視、重要視しなくとも、あの空、あの山、海も川も、そしてたぶんあなたも僕も、あらゆる森羅万象が織りなす形象すべてが真理からすれば標であり鏡と言えます。

この夢幻的世界、この世界内では、身体に縛られた時空間上の知覚を通じて真理に触れる、呼び起こす機会を人間に鮮やかに提示することが本来の芸術家の仕事ですが、実は最も大切なことは、芸術作品という現象世界に現れた知覚の産物ではなく「芸術体験」の方です。
自分たちの内と外を無効にする〈真理〉を体験すること。なぜなら、それは時間と空間から解放される瞬間であり、死や人間であることからも〈自由〉になることだからです。

では、どこに悲しみがあるのか?

芸術作品とは、〈真理〉への接近、これを可能とする非二元的代替物であり、芸術体験とは、まさに真理を知る、思い起こす再生の瞬間なのです。 

(と、一気呵成に書いてみたが、まとまんねー)


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