〈写真集のメイキングレポート〉と題して、その時々に思いついたことをつらつら書いていますが、昨夜「今度ブログに親父の写真を載せようかと思ってんだよね」と、只今写真集のデザインワークに専心中のつくしに何気なく振ったら、「え?!写真集に入れない写真を載せてもイイの?」と返され、「あれあれ?ブログのメイキングレポートに付けた写真は写真集には載せんけど」。
今回の2冊の写真集には人物写真、ポートレートは1枚も出てきませんが、なんとなくこのブログ、経過報告的な文章に人物写真をアップしてしまうのは、たぶん、言葉にするとダサいな、まぁ、人から人、人と人、その関係性から生まれる何かだから。
このブログのメイキングレポート⑥で使用した写真は土建屋の社長で、ときおりウチに絶品生卵のお裾分けに来る人。
メイキングレポート⑨の女性の方は、今年の6月に逝去されたつくしのお母さん。「葬儀用に必要!」と言われ、ふと「なんか随分前に撮影したよな〜」と思い出し、慌てて写真ストックの中から引っ張り出し、無事葬儀に使われたもの。
自分が撮った写真が葬式に使われるのはかなり変な気分だけれど、「あぁ、確かはじめて葬式に使われたポートレートは親父の写真だったよなぁ」と懐かしくなり、先日イルフォードの印画紙の箱の中に無造作に放り込まれた過去のストックを物色してみたら、あらら、1枚のプリントが出てきた。
だいたい葬式に使われるポートレートは総じて不吉で、別に故人の顔写真を最期に飾る必要なんてあるんだろうかと訝しく思うタチなので、来るべき葬儀のためにある人間のポートレートを撮るなんてことはあり得ない。「なになにの為に撮っておこう」と言う感覚がそもそも僕には無いし、それはとても悲しい撮影動機のような気もする。もっとも日本の葬式の在り方、その仕組みや段取りについてもめちゃ懐疑的……。
ただ、自分が撮ったポートレートが葬式に使われるのは、親父の時にはまったく気づかなかったけれど、つくしの母さんが亡くなって、葬儀場で遺影として改めてその写真に触れた際にはあまり嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、光栄に思った。
故人を偲んで、というのはまるで違う。
追悼はあくまでも個人的なものであり、自分の意識のある内は故人と共に在り、だからその人間の一等美しい表情を胸に置いておきたい。
⁂今回の写真集のデザイン担当つくしのブログはこちら。
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