2024/09/19

写真集のメイキングレポート⑰


 〜ファッションとアートについて〜

先日、たまたまマルタン・マルジェラという気鋭のファッションデザイナー(だった)の記事をInstagramで見かけ、現在彼は何をしているのか気になり調べると、数年前に現代美術のアーチストとして洋服ではない純粋作品をどこかのギャラリーで発表していた。それでその展示された作品画像を数点、Googleで見ましたが、『メゾン・マルタン・マルジェラ』のファッションデザイナーとしての仕事の方が断然良くて、ふと、ファッションとアート、ファッションデザイナーと美術家との違いについて、何でもかんでも一緒くたにコラボさせ、そこにある何か決定的な違いを見過ごしがちなので、少し書いておこうかと思いました。

ファッションブランドの世界は外から見ている分にはとても興味深く、また彼らの仕事に触れるのは、正直、現代美術のアーチストの作品を見るより断然面白い。特にハイブランドが打ち出すイマジネーションの躍動と緻密な職人芸の融合、隙のないあの手この手の商品戦略にはいつも感心させられる。ただ、僕は自分が着るものについてかなり無頓着で、あまりこだわりもなく、今持っている服もその半分以上が先輩からドサっといただいたもの。

今までファッションデザイナーで凄い才能、感性だなぁと衝撃を受けたのは故アレキサンダー・マックイーンの仕事ですが、もちろん彼が天才ファッションデザイナーであったことに異論を唱える者はいません。しかし彼がもし洋服ではなく、絵でも写真でもなんでも良いですが、違うジャンルで勝負できたのか、洋服デザインと同水準の作品を提出できたのかと言えば、それは無茶な相談です。
なぜなら、ファッションの世界はどこまで行っても見た目、外見、見栄えの追求であり、人間の生の本質への眼差し、通常の視覚の向こう側へ旅立とうとする潜在的な意志は封印するからです。逆にアート、芸術のフィールドでは「人間はどこから来てどこへ行くのか?」という存在論的な問いや、なぜ世界は在るのか?という根源的な命題への接近を可能にし、またその答えをも示唆します。
アートもファッションも、まず「美とは何か?」という問いから始めるのですが、ファッションの世界では、人の眼を、太古の時代では神の眼を意識し、「自分は彼らにどう見られるか?」という身体的外観に関心が向き、「人間または宇宙存在そのものの根拠や意味について根源的・普遍的に考察すること」や、眼に見えない世界、つまり〈心の美〉についての探求は放棄せざるを得ません。
アートは、従来の知覚を清め、知覚を超えた世界の美を予見させますが、ファッションは、最終的には知覚の錯乱へと行き着きます。なので本来は、ファッションとアートを同列に並べることは不可能なことです。
もちろんマルセル・デュシャンやアンディ・ウォーホルのような作品が一流アーチストの仕事として認知されている状況では、アートもファッションもさほど変わりませんが、そもそも現代アートがその領地から〈美=真理〉を追い出し、見た目の奇抜さと作品サイズ、アイデアの意外性と技法や素材の真新しさ等々、外観や仕上がりばかりに注目し、シーンの中心を担うようになったのはたかだか1960年あたりに始まったことに過ぎません。

ファッション、アパレルとは、人間の身体を隠すもの、包み込み、他者にどのような想像的刺激を与えれば魅了しうるのか、時代時代の流行り廃りを考慮した上での実践ですが、実は「人間の"素"は醜い。心そのものを他者が見ることが出来ないのは幸いだが、実は人間の本質、本性とは醜悪である」を前提とし(これは現代アートもそうですが)、ゆえ外見を着飾ったりデコレートしなければ人や神の御前には立てぬと言う、「あるがままの自分そのもの」への嫌悪、自己否認がそのベースには隠されています。
しかし本来のアートの役割りとは、「あるがまま」の自分とは、人間の本性、本質とは、そもそも美しいのでは?という普遍的な場所、視座を明らかにしようとします。そしてアートが明かす美とは、ファッションが誘発する「自分は特別である、他人とは違う、これを着るわたしは特別になれる」という変身願望への強化ではなく、すべてが美であり、私が感じる美しさとは、あらゆる人間、生命に浸透している、つまり私たちは「美から生まれた」という直知へと誘います。そしてこの「美から生まれた」という絶対的な真理を知らない、持たない人間は誰一人存在しないのです。なぜなら、それを知っているが故に、その美と自分自身を比べ、自己否定、自己嫌悪は始まるからです。ここに意識誕生の、放蕩息子の譬え話やビックバンの秘密はありますが、ファッションとアートの目的、意図や方向性の差を明瞭にしようとする試みから逸脱しますので、この辺で……。 
ただし、ファッションデザイナーが持っている服飾への愛、アーチストが抱く絵画や彫刻、自分が制作するものへの愛、ガラス清掃員が窓ガラスをピッカピカにすることへの愛、交通誘導員がごった返すクルマがスムーズに流れてゆくことへの愛、そして神主さんが抱く神への愛などなど……、この人間の内側で起こる「愛そのもの」、愛それ自体は、決して比べることが出来ないので、◯◯への愛という、外的な対象やジャンルの差は、あまり重要なことではないのでしょう。と、アートとファッションの視覚意識の方向性の違いについて言及しながら、そこはそんな目くじら立てる必要もないんじゃね、って所に来てしまいました。
たぶん今回の与太話の結論としては、究極の愛とはまさに「愛への愛」なんじゃないかな?
今日はそんなことを考えたのでした。

愛と美、そして真理とは、同意語だったんですね。

 


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