〜昨年の8月に知り合い、懇意にさせていただいている内田和男さんのブログの記事から〜
投稿の下に海沼武史氏のフォトストアのリンクを付けるようになりました。(つくしさんのリンクも同時期に付け始めました)
私にとって全く畑違いの世界ですが、人の原点・心の原点に気がつける気がします。
武史さんと昨年からいろんな話をしてきた気がしますが、その中でなぜ音楽を作るのか、その経緯や写真を撮る経緯を伺ってきました。
武史さんをオススメするのにこの音楽はどうかなって思うのですが、これが大事な音源なんです↓
以前紹介してからもずっと聞いています。
ノリの良い曲でもなく、癒やされる曲でも無いと思ってます。
これはそういう曲では無く、余計なモノを全部取っ払ってしまう、自浄作用を持つ曲です。
聞いていると不安になったり、気味が悪くなったりするのは、人が持つ自我が抵抗するからです。
自我は自分を打ち崩そうとするものに強く反発し、主人をそこから逃げさせようとします。
自我の向こう側に隠れて見えなくなっているのは、安心であり安定です。
ずっとそこにあるのだけど、分からなくなってしまっています。
自我が競争意識や優劣感情に強く影響を受けいるから、人間の本質である安心・安定から遠のいています。
でもそれが分からないし、教えて貰えない。
武史さんとの関わりは、最初は写真で、写真を撮ることについての動画を見たことで、そこにある想いを知るようになりました。
音楽を作る、写真を撮る、それらの作業は武史さんにとって無意識の「原点回帰」であり、創作活動そのものが原点を見える化しています。
ただ、まあこれは今だから分かる話で、武史さん自身、昔から言葉にしているけど理解はしていなかった、そんな感じでした。
「言葉にした」というのは、音楽の創作については触れてませんが、写真撮影については「光に包まれる瞬間」と話している動画が残っています。
撮影はそこに光を見る時です。
こういうの良いと思います。
そういう武史さんが「何だか分からないけれど、無性に作りたくなった音楽」というのが↑です。
数十年も前の作品です。
私にとっては、これをきっかけに創造されたものの本質を意識するようになりました。
わけの分からない話かもしれないのですが、武史さんの作品は音楽も写真も「人が本来あるべき姿に気づかせる」そういう世界観があります。
だから、じっくり見て貰いたくて、「武史さんネットショップを作りましょうよ」とサイトを作り、見て貰える機会を増やしました。
是非、気になる写真を見つけてください。
じっくり写真と向き合う事で、あなたの中にある「本来ある姿」が引き出されるようになります。
1 件のコメント:
「転載しても良い?」と武史さんから連絡が来たら、「どぞ~。ご自由に~」って送ったら、そのまま転載してあった。
すべてコピペして良い?って聞かれていたので、言葉通りではありますが・・・笑
ご本人のブログに私が書いた内容が載っているのも不思議な感じです。
「転載しても良い?」と聞かれた時に合わせて『「原点回帰」であり、創作活動そのものが原点を見える化しています。』、この「見える化」って表現は、そのままイキで良いのかな?と聞かれてて、答えるのを忘れてました。
見える化ってイメージを捉えやすい気がして。
ブログを書くときは、大体流れで書いてしまうので、この時はこれがしっくり来たのだと思います(一応読み返しています)
それはさておき、武史さんが「見える化」に反応した意図は分かりませんが、こういう風な表現をした、話題に触れたのには理由がありました。
これまで武史さんとあれこれ話をしてきた中で「武史さんは何をしてきたかに気がついていない」感じがしたためです。
もちろん、これは既に過去の会話の中で整理がされた話ですが、私のブログで武史さんが登場する場合は省くことが出来ない内容なので書きました。
この創作活動が何を表しているのかを意識していないのはアーティスト特有なのか、武史さんだからなのか、それは分からないです。
これまでの武史さんは「何かを求め追い続けていた」そういう人だと理解しています。
その求めているモノ、追い続けていたモノが「原初」だと私は感じました。
それを原点とブログでは書いています。
原初でも原点でも言葉の意味は大事ではなく、言ってみれば武史さんは全ての根幹に意識を向け続けていた、でも武史さんにその意識が無かったみたい。
どこかで何かを感じていたかも知れないけれど、ご自身の中で言語化はされていなかったです。
この言語化がされてからの変化がすごい。
武史さんそのものが変わった?そんな感じがしています。
ただ、昔の武史さんを知らないです。
ここ1年の武史さんの姿を見て、話を聞いている分には、本来のあるべき武史さんになってるんじゃないかな~と思います。
武史さんはあれこれ右往左往ご自身の中でしていたようなのですが、作品は一貫していると感じています。
音楽も写真もそこに向き合う時、武史さんは存在そのものであろうとしていることがよく伝わってきます。
武史さんの創作活動は存在を見える化する作業。
やっぱりここに戻ってくるんですよね。
そして、生み出された作品は、その見えている・聞こえている表面だけでなく、一歩踏み込んで感じとろうとすることで芯が通った世界に導いてくれる。
そんな人であり作品だから、出来るだけたくさんの人に見入って欲しいな~という想いがあるのでした。ちゃんちゃん。
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