〜プリントについて〜
写真にとって不可欠な撮影という行為は、具体的な対象物を必要とします。有形の被写体なくして撮影および写真表現は成立し得ません。つまり、持続する時間軸での作業工程の痕跡を残す絵画とは違い、写真は、被写体を前に、シャッターを切るという一瞬の行為を通じて、究極的には「被写体(世界)は私である」もしくは「被写体(世界)は私の一部である」という形而上学的瞬間と立ち合うこととなります。
と、相変わらず大袈裟なことを書いてますが、ちなみに僕は人の写真を見るより絵画鑑賞の方が好きです。
写真展は、まだ20代30代の頃に「印刷物の写真では見えない何かをオリジナルプリントで確かめに行かねば!」と、ちょくちょくギャラリーや美術館へ足を運びました。たぶん著名な写真家たちのプリントはその頃ほとんど見ていると思います。が、今となっては絵画展の方が断然面白い。
ただ、写真家のオリジナルプリント、手焼きとは、その写真家の個性や癖、匂いのようなものまで定着されているので、やはりその写真家の特質により近づきたければナマ写真を見るしかありません。オリジナルプリントが持っている情報量は、印刷写真やweb上の写真とは比べ物にならないし、オリジナルプリント特有の呼吸感とは、写真家の息づかいみたいなものだから、写真家自らの手焼きを見る機会、経験は無いより持っといた方が良いです。より写真表現もしくは写真鑑賞の楽しみの幅が広がりますので。
たとえば、ロバート・フランクのラフなんだけれど淡い優しげなトーンとか、荒木経惟のプリントには女性の肌の艶かしさを出すための工夫が、そして森山大道の確信と直感に満ちた大胆な焼き込み、ハリー・キャラハンのクラクラするような精密なプリント、ロバート・メイプルソープの「なんだよ、プリンターにお任せかよ」等々、印刷物やネット上の写真では分からない彼らの作業現場の光景が、手作業や思いの深さがありありとオリジナルプリントからは伺い知ることができるのです。
もちろんデジタルカメラの時代が到来し、フィルムや印画紙の生産は縮小され、やがて写真家のオリジナルプリントを愉しみ、味わい、議論する眼玉たちもほとんど居なくなり、新発売プリンターの性能ばかりが話題をさらい、やがてこれも下火となり、「あの〜、写真家って、撮影はもちろんのこと、そのプリントにだって個性が滲み出てしまうもんだよ。たとえデジタル、インクジェットのプリントでさえね」と、まぁ、別に嘆いてる訳ではありませんが。
いずれにせよ、モノクロ時代の現像液によるプリントも、現在のインクジェットプリンターによるプリントも、僕にとっては同じことで、一枚の白い紙の上に写像が現れて来るその最初の瞬間に立ち会えることの歓び、そしてそこに居合わせなければ、その像、写真の現場に身を置いた撮影者だけが知っている、見て、感じた何か気配のようなものは入り込まないと、なにやら非科学的の次元のこと?量子力学的な不思議な現象について僕は少なからず確信を持っています。なぜなら体験的に、写真家が自ら焼いたプリントと、いわゆる職業プリンターらが焼いた写真との明らかな違いを何度も見て、確かめたことなので。ちなみにダイアン・アーバスのプリンティングなんかはかなり雑な方で、いわば下手くそなんですが、それでもそのせっかちさ、生き急いでいる感じがなんとも彼女の切迫した生き様を表していて、プリンターらの優等生的な手焼き写真にはない不良性とライブ感が、アーバスのオリジナルプリントからはビシビシ伝わって来ます。
写真家のプリントとは、「この写真を撮影したのは私。そしてその撮影現場の空気感、トーンを知っているのも私。なぜってこの身体に刻み込まれているから」が、定着されているのです。
では、印刷所に任せざるを得ない写真集の中の印刷された写真とは?
これは展示物として1点1点の写真をプリントする際の気構えとは、厳密に言って、写真家の眼と意識の力配分がやや異なって来ます。
プリントの場合は、この写真、このカット1点だけで射抜くのだ!という気概をずっとキープし、1枚1枚精緻に確認しながらプリントしますが、写真集の印刷された写真の方は印刷所によって色や調子などの得意不得意があり、色校正による詰めにも限度があります。また写真集ならではのページめくりという行為が、視覚をイメージの連続性の中に巻き込むので、1枚1枚の写真のトーンの合わせ方を1点プリントだけで見せる際とは微妙に変えます。なので強いて言うなら、1点1点で見せるオリジナルプリントを写真家のナマ演奏!だとするなら、写真集の方は「写真家の楽譜」に近いかも知れません。
まぁ、でも、かなりマニアックな話です。
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