2009/12/28

破壊(創造)せよ、と彼女は言った。/ N-04A



たぶんぼくは、もう振り返ったりはしない、だろう

めくるめくヒカリの元で、撮影している瞬間(トキ)が 

消え入りそうな予感 と “無”へ うながす 

豊潤な風のオンガクに包み込まれ

滲みあうものたちの夢のない眠りのフィールドへ 


2009/12/24

イフンケに守られて / Ms.Saki Toyama



以前、このブログでもご紹介させていただいた『遠山サキ、唄の伝承』のDVDがこちらにて販売しております。

上記の動画は、そのPV(?)のようですが、ご興味のある方はどうぞご覧になってみてください。

僕は、このDVDを下倉洋之のアトリエ「rakan」にて鑑賞させてもらいましたが、床絵美の祖母である遠山サキさんの存在感を肌身で感じている者にとってその記録・映像は、率直に申し上げて、まだ“資料”の域を出ていないように思いました。

アイヌの唄とは、資料ではないんですね。アイヌの着物とは、けっして民族衣装などという名称を与えてはならぬ、今なを生命をもっている、現在を生きている正装なんですね。民俗学者、文化人類学、どこどこの研究者等々のつまらぬファンタジスタ(?)が興味本位で扱ってはならぬ、また、近寄ってはならない「今」の事、今を生きているモノでありコトなんです。
うーん、巧く言えんのだけど、こういった認識というか直知、了解は、もちろん人間•床絵美との付き合いや下倉洋之の所作、言葉がヒントとなり、またこれを通して僕の内で少しずつ育まれていったものですが、この“感覚”は他人にはまったく伝えようがないから、もうすこし真剣に対峙してみてくださいね、としか言えない。アイヌの民と対峙するんじゃありませんよ。自分自身と、です。そうすれば、たぶん気づくと思います。本当に大事なモノ、コト、とは、何であるのかを。

2009/12/01

あの、此の世 / Hachiōji, Tokyo-03

photo by Takeshi Kainuma

(ええ、、荒涼とした、世界、風景・・・に見えますが、寂しげな光景・・・とも、映るんでしょうが、よくよく開き、感じ、視てもらえば、そこに在るのは、ひとつの状況だよね。「現場」って呼べばいいのか、場が現れている。・・・こんな場所で、僕たちは、たぶん、ひどく甘やかされたカラダとかココロ・・・、装飾された、中身のないパッケージを・・・ハクダツされてしまうんだろう・・・。
ヒトは、よく誤読するよね。目をくらまされる。真実の、僕らの存在の真ん中に位置する、イノチの切ないほどの温もりや、ひどく懐かしい霊気、尊さ、気高さというものを、こういった極限の場所、風景の極北にて、はじめて、ああ・・・強烈に実感するのだよ。視えて来るんじゃないのかな。
困ったことにヒトという生き物は、そんな風にしか出来ていない。ゴージャスな、困窮を知らぬ生活、文明の輝かしい勝利、超安全で快適な暮らしの中で、もし、イノチの、真実の官能性を味わおうと目論んでも、そりゃ無理だね。
やがてヒトは死を迎える、数多の所有物が、寿命というサークルの内でフッと消えざるを得ない、持ってゆけるモノなど何ひとつ無いのなら、ほら、愛を語りだすのはこのむき出しの場所で・・・。)

2009/11/21

John Lennon / Mind Games

John Lennon-Mind Games ,1973

We're playing those mind games together
Pushing the barriers planting seeds
Playing the mind guerrilla
Chanting the Mantra peace on earth

We all been playing those mind games forever
Some kinda druid dudes lifting the veil
Doing the mind guerrilla
Some call it magic the search for the grail

Love is the answer and you know that for sure
Love is a flower you got to let it grow

So keep on playing those mind games together
Faith in the future out of the now
You just can't beat on those mind guerrillas
Absolute elsewhere in the stones of your mind

Yeah we're playing those mind games together
Projecting our images in space and in time
Yes is the answer and you know that for sure
Yes is surrender you got to let it go

So keep on playing those mind games together
Doing the ritual dance in the sun
Millions of mind guerrillas
Putting their soul power to the karmic wheel

Keep on playing those mind games together
Raising the spirit of peace and love
(I want you to make love, not war
I know you've heard it before)

2009/11/11

畑・ムーヴィー3部作 / New Farm Paradise




「ロードムービー」というコトバを世に定着させたのは、たぶん映画『パリ、テキサス』や『ベルリン・天使の詩』で著名なドイツの映像作家ヴィム・ヴェンダースだと思いますが、彼の1970年代の仕事に「ロード・ムービー3部作」というのがあって、これは『都会のアリス』、『まわり道』、『さすらい』、どの映画も僕はまだ見ておりませんが、ヴェンダース、けっこう好きな監督でした。
ただ、ロードムービー(Road movie)とは、映画ジャンルの一つの呼称ですが、その萌芽は、すでに1950年代にアメリカの小説家ジャック・ケルアックの『路上』 On the Road (1957年)という作品に、またはスイスからの移民写真家ロバート・フランクの写真集『アメリカ人』Les Americains(1958年)などなどにあり、が、まあ、しょせんはアメリカ大陸という白人種にとって根のない場所での「必然感情」、「まなざし」だったんじゃないかと、今更ながらに思うわけで・・・。いや、もう少し綿密に語れますが、まあ、いいか・・・。もちろん僕はケルアックやフランクが描いた作品に10~20代の頃、かなり愛着を覚えていました。
前置きが長くなった、ということで、「畑・ムービー3部作」の3作目が、偶然、出来上がったので、どうぞ鑑賞してください。
唄は、アイヌの歌い手・郷右近富貴子。歌詞はこちらを参照。

ちなみに、1作目は『after the storm』、2作目は前回アップした『family album』です。

2009/11/01

ファミリー・アルバム / family album


a film by Takeshi Kainuma

つい先日、このブログ内だけで鑑賞可の「『after the storm』という題名の動画をアップしましたが、今回はその続編、です。
ついに本人が登場じゃあー。

今日は2009年(平成21年)11月1日。
携帯電話(N-04A )、その動画機能はどんなもんかとカミさんが友達と一緒にやっている畑にて撮影・・・。まあ、相変わらず変てこな物が出来てしまったさ。

2009/10/30

踏切 / railroad crossing


photo by Takeshi Kainuma


「橋」であるとか「トンネル」、または「三途の河」ね。もしくは「踏切」とは、どうもニンゲン存在に「こちらとあちら側」を強烈に意識させる文物であり、メタファーに使われたりもしますが、僕は最近、この町に住みだしてずうっと気になっていた「踏切」を、ある夜、とうとう撮影しに行った。
「最近は携帯電話でしか撮影してませんから・・・」などと告白しましたが、なんとなく、3~4日前、近所にときおり深呼吸しにいくお気に入りの場所があるのですが、三脚かついでそこに赴き、「ああ、撮れるね」とココロ騒ぎ、一眼デジタルで「踏切」を撮影しました。
この写真---。
ちなみに、この踏切以外にも、もう一つだけ、僕の愛する踏切が近くにありますが、そこには「とまれみよ」という表示板が取り付けられています。
「とまれみよ!」だよ、凄い表記、コトバですね。 
たとえば、踏切の形而上学、精神の踏切としてこのコトバを注視するなら、この「とまれみよ」とは「汝自身を知れ」であり、「あんた、“無知の智”、ね」でありましょう。ソクラテスの「無知の知」とは、「わたしはな~んも知らない事を知っている」ですが、「世界」というのはそれぞれの心、意識の劇場内でのドラマ、投影認知でありますから、「あんたはあんた自身の事をなんも知らない」とは、「世界」のことを実はみんな何も知らない、となります。
ちょっと疲労コンバインの中でいま書いてますので、かなりイイから加減なすっと飛び文章になってますが、僕が「踏切」を撮影して、ひどく痛感したことを最後に書いて、なんとか文態を保とうとするなら、あの世だのこの世だの、それは「踏切」を超えてない人たちの概念、物語であり、そこをひとたび超えてしまった、踏切超えをした人たちにとっては、恐るべきことに、あちらもこちらも無いわけで、つまり「踏切これ自体」が消滅する。「踏切」だの、「橋」だの、「三途の河」ね、いわゆる「境界」自体が無化してしまう。この考えは、いまの僕にとってはたいへん心地よいアイデアで、ほら、お釈迦さんの滅茶苦茶ツッパッタ言葉、「あの世もこの世もともに捨て、犀の角のようにただひとり歩め」な~んてオンガクが、まるで響いてくるかのよう。。。
学生の頃、僕は17,8で、ウイリアム・ブレイクおよびドアーズの「ブレークスルー」という概念、思想にひどく心臓を揺さぶられましたが、あれからすでに30年が経ちました。そしてようやく、とうとう・・・、僕はニヤニヤしながら、この身体を連れ、生きたまま、この「踏切」を渡っちまおうかと思っています。

でも、もし失敗なんかしたら、どうか皆さん、笑ってくださいね。

 

 

2009/10/28

身体の意味 / physical origin

 10.27.2009

「え、とりあえず・・・、身体はちゃんと着けておかなくっちゃ、ね。」


N-04A (夢のない眠り)』より 

2009/10/21

なんともはや / guardman's report-2


僕が生まれたのは昭和37年10月3日で、今月は47回目の誕生日月、なんともはや、一昨日、勤務中に車にはねられてしまいました。もちろんこれは初体験。が、命に別状ナシ。別状あれば、こんな風にブログは書けない。ちなみに僕が車にぶつけられる瞬間、その一部始終見ていた人々はなぜか多く、目撃した隊員(同僚のこと)や職人さん、現場監督さんらによると、まるでひょろ長い人形がガクッと倒されるかのようだった、と。
この仕事に就き、1ヶ月ぐらいして、僕は生まれてはじめて人身事故というものを目撃しましたが、まさかその数ヵ月後に自分が車に“轢かれる”のではなく“ハネラレル”とは、フツー想像しない。犬のユタは轢かれて死んだけど、僕ははねられた。なんか…辛いね。
10月19日月曜日の18時頃、あたりはもう真っ暗で、僕はいつものようにH氏と組んで片側交互通行、息のあった誘導ぶり、「あと15分ぐらいで開放だな」と、まあ、最後まで気を抜かないように誘導灯とジャケットを赤くピカピカ点滅させて、で、僕は身長が186ありますから、まあ、目立ちます。じゃあ、なんで車がどーんとぶつかって来るのよ…。しかし運が良かったのでしょう、救急車に連れ去られることも無く、なんだあーかんだあーと警視庁の交通捜査係のマニアックな現場検証に付き合わされ、約2時間ぐらいその場に佇んでいなければならず、ドライバーの方、お気の毒に、そして最後までお付き合いしていただいたウチの警備会社とはまったく関係のないクライアント、現場監督さん、ただただ申し訳なく…。でもね、一歩間違ったら、つまり打ち所や交わし方を間違えていれば、もし車が軽自動車ではなく四駆だったら、そしてもし、その車の速度が30キロではなく50キロ以上のスピードでぶつけられていたら、僕はこの世とおさらばしなければならなかった、いや、通院生活とリハビリとか、半身不随とか・・・、そう考えると「嗚呼・・・」、実に恐ろしくなります、だから考えない。
それで、現在、僕はぴんぴんしているんですが、昨日今日と現場に出れたし…。ただ、近づいて来るクルマに対してやたら身体が引く、皆さん、運転にはくれぐれも気をつけましょう!!
「ガードマンズ・レポート-2」でした。

p.s.それで家路に着きカミさんに事後報告した際のその一言がケッサク。「あんたねえ、いつも人とぶつかっているから、車にぶつけられるのよ」だってさ。

 

 

2009/10/17

クモノカミワザ / Camp Master


或る時、銀細工職人Ague(本名:下倉洋之)が近くの軒下に張られていた見事な蜘蛛の巣を指差して、「ほら、これ凄いでしょ・・・」と、熱っぽく語りはじめた。
普段は、どちらかと言えば無口、寡黙な男が、時に、何かが弾けてしまった様に饒舌に、その大きな丸い濃い瞳の奥を、まるで燻し銀のような重厚な光を煌かせ、爛々と、語りだすときは、聞き手はとりあえずその気持ちを抑え、聞き入らなければならない。
いつもは、たえず僕の聞き役に回っている、というか回らされているちょっぴり不運な男が、そう、或る時、蜘蛛の巣、その糸の材質の類稀な強度について、僕に熱弁をふるってくれたのだ。
・・・以来、蜘蛛の巣を見るたびごとに、彼のコトバが僕の内で渦を巻くようになった。

そして下記の写真は、彼の手仕事です。これ、実はペンダントなんですよ。

2009/10/14

インストゥルメンタルの魅力 / guitarist

インストゥルメンタルとは、“人声を用いず、楽器のみで演奏された音楽、「器楽曲」と呼ばれる。”らしいのですが、えー最近、超メジャーなミュージシャンの動画をこのブログにおいてさらりご紹介しましたが、今回はややメジャーな、それもインストゥルメンタル、ギタリストの仕事、音楽を聴いていただきたいと思います(ナ~ゼ?)。
まずはじめにマイケル・ヘッジス---。
僕がつまらん御託を並べる前に、下記の動画を見ていただくのが一番分かりやすいのですが、念のため、きっちり彼の音楽と対峙してもらうために、ちょっとムニャムニャ囁いておきますが、彼は天才です。
(ステイングやボノ、シンニード・オコーナー、またはトレイシー・チャップマンも、“天才”って感じじゃないよね。)
つまり、今から皆さんは天才のaura、その姿、彼が紡ぎだす音楽(ナニカ)に触れてしまうのですが、準備は出来ていますか。天才とは、滅多に出会えませぬよ。
この動画、映像はサイテーであり、音源・録音状態も劣悪でありますが、YouTubeってのは凄いですね、天才と出会う場、時間などをたまに提供してくれるのです。
もちろん天才ギタリストと言えば、パコ・デ・ルシア(Paco de lucia)なんかも巨星ではありますが、なぜか僕はあまり彼の音楽には魅了されない。その理由を書くとなると長くなりそうなので今回は止めておますが、マイケル・ヘッジスの音楽の素晴らしさとは、どこの国の、どこのジャンルの音楽なのか、もはやまったく意味をなさない“処”までイッテしまっている、というところにあります。マイルス・デイビスの音楽がもはや“jazz”とは呼べず、またボブ・マーリーの音楽も、あの暢気な“reggaeちゃんちきおけさ”を超えてしまっている・・・で、天才と供に眠ると魘される、そこがまたサイコーでしょう?


Michael Hedges - Ragamuffin


Paris, Texas - Wim Wenders - 1984 (music by Ry Cooder)


Michael Hedges - Aerial Boundaries

2009/10/12

床絵美のライブレビュー / Review



~「霧の中の騾馬」堀内幹のブログより~

『オニグルマvol.5』 2009.10.06 Tuesday 02:01

4番目・床絵美

普通は皆で唄うウポポをひとりで唄うという珍しい形で出演してくれました。
圧倒的に素晴らしかったです。
唄、ムックリ、トンコリ、どれをとっても余分なところがない。
それは非常に生き物の鳴き声や自然の音に良く似ていて、単純、シンプルなものなのに、その中にすべてが存在しているという安心感を与えてくれる。まして彼女の声から愛情、慈しみの温度があふれている。
ただそれだけではなくて、なんだろう音が脳みそのしわの間に入り込んでくるというのか、音がチリチリと頭のなかで電気のようになって暴れていました。そして、涙がでました。
前者が長い時間と巨大な空間を通ってきた普遍的で社会のものの唄の力で、後者のチリチリとしたものが床絵美さんが発する磁場であり、その両方が存在する音は本当に強いものでした。
勉強になりました。
私が床絵美さんと友人であり、アイヌの音楽に少しは慣れ親しんでいるということを差し引いても、今回のライブは素晴らしかったと思います。
加えて私事ですが、ライブハウスで初めて私の歌(「借りものの歌」)をうたってもらい、そして初のゲスト出演として一緒に歌うという経験までさせてもらいました。
初と言えば、ギターの弦をもう10年以上は頭のところから余分な弦を伸ばしっぱなしにしていて、そのノイズが好きだったりしたのですが、切りました、今回。
おそらく当分はこれで行くと思います。
あと、ギターの音をマイクで拾うといろいろ問題があって、ピックアップをつけ、ラウドにする方向で来ていたのですが、それももうやめにすることにしました。
あまりのトンコリの音の美しさや、能管・篠笛の本来の音の届き方など考えると、その音の拾い方のこともそうですが、楽器をやはり作ろうかなと思いました。
と、本当にいろいろ大切なものをいただけた夜でした。


台風一過 2009.10.08 Thursday 14:30

『オニグルマvol.5』での床絵美さんのライブ、その後考えていることについて書いてみたいと思います。
先月、あるミュージシャンのライブに行ったとき、「人の前でやるのは飽きた。自然を相手にしたほうが気持ちいい。」
とその人はおっしゃっていて、確かに私もそんな気がするけれど、それはなんだか個人的な気持ちの問題で、その音楽はいったいどうなのかとどこかに引っかかっていました。
それでこの前の床絵美さんのライブ。
終了後、お客さんとしてきてくれたドラマーが、「外にいるようでした。そういうのって日本のであまり無いですよね。」と言っていました。
アイヌのウポポとは、という話になると記憶力の弱い私にはどうしようもなくなるのでよしますが、ただ、あの夜会場にいたおそらくみんな、森の、山の、生き物の匂いを嗅いでいたと思います。
それも、明らかに人だけではない「世界のなかの私たち」の匂い。
森の中から絵美さんのトンコリとウポポが聞こえてきたら、その音に誘われて行って、きっと恋をするでしょう。
その音の本来の場所の生きている匂い。
それが現代の都市で生きる絵美さんから、東京のコンクリートで固められた地下の一室から感じられたことが、驚き、畏れおおいことだと思いました。

2009/10/10

あかるい処、みらいの百姓 / after the storm



カタチとはナニカ?
カタチへのこだわりは、習慣をうみ、安心をさそう
やがてヒトはココロをどこかにおきわすれ
おきわすれられたココロは、死んだのではなく
カタチへの執着にまきこまれ、ただ眠っているだけ
眼をさましてみたら、カタチは変幻自在のイノチとあそぶ

カタチのない音楽をつくってきた
床絵美が歌う アイヌの唄
これは 削ぎおとすだけそぎ落とされた 極限のカタチか?
Riwkakantの音楽とは カタチのないカタチの楽音
際と際が出会うからこそ 宇宙がうまれる

若い頃 きいてきたロック音楽 etc
離れてしまったのは あまりにも形式的すぎたから
安心とは ある日 とつじょ息苦しさをかんじるもの 牢獄の音楽たちよ
やんちゃなイノチがうごきはじめたら
うんと旅にでようか 
 ウン
あ 不安定な旅
まるで風のきまぐれ・・・

2009/10/09

孤独な散歩者の夢想 / morningscape


a film & music by Takeshi Kainuma


今日10月9日はユタの命日で、彼が僕の眼の前で車にはねられ、逝き、もう3年が過ぎた。

この、「morningscape -孤独な散歩者の夢想-」というタイトルがつけられた作品が生まれたのは、床絵美(敬称略)と、「Riwkakant リウカカント」というユニットを結成してまだ間もない頃だったか、アイヌの唄に編曲を施すという途轍もない緊張を日々強いられたその作業の合間に、ふと、窓の向こうに広がる初夏の瑞々しいグリーンと、見え隠れする細い山道に眼をやった瞬間、「ああ、ユタとよく散歩したよな、あの道・・・」と、そんな想いが高ぶった神経の内部からポッと膨らんだ瞬間、一気呵成に仕上げてしまったものです。

しばらくして、その音楽を使い動画を作った。一切の説明を排した。このブログにもアップしてましたが、少し間をおき(1年ほどか?)、再編集してみた。どこかが納得いかなかったというより、僕はもうそろそろ何かを手放すときだとつよく感じたからだ。

音楽に、耳を澄ませてほしい。
映像が余計だと感じる方は、その眼を瞑り、聴いてほしい。
この曲は、言葉にならない、声にもならない、僕のもうひとつの唄なのです。

2009/10/02

色の動機 / nothing compares to you

ああ、風邪をひいてしまった。
そして朝から雨・・・。現場はまたもや中止、もう秋なんだな、カミさん手製の鍋焼きうどんを昼食に、ああ僕は、いつも身体の具合が芳しくないときにも食欲だけはある、でもまったく太らない、なぜだ?つまり交通誘導はさ、“天使のシゴト”なんだなと、昨夜、熱にうなされた頭の内にコトバは浮かび、この仕事をはじめてからまだ2ヵ月半ぐらいしか経っていなにのに、否、経っていないから、風邪ばかりひいている、この十数年間、1度も風邪をひいたこと無いのに、Aaa...この世は寒いって、冗談を綴るのもこのぐらいにして、今さっきちょっと写真の整理中にインターネットを閲覧していたら思わぬ人、懐かしいPVと再会したんで、今日は暇つぶし、病気つぶしにその方々を紹介---。
おふたりとも、僕がまだ20代後半、そう20年前に登場した女性シンガーです。皆さんご存知かな?まだ産まれてませんでした?
僕はこのブログにおいて、たまにワケワカランダロウPV、自作の音楽のための動画をご紹介させてもらっていますが、僕のベースなんぞは非常に分かりやすいというか、まあ、下記のような歌を聴いてきたんですね。
久方ぶりにシンニード・オコーナーとトレイシー・チャップマンの歌声を聴きました、20年ぶり、こんな秋雨の日には・・・うっとりする。



Sinead O´Connor - Nothing compares to you



Tracy Chapman - Baby Can I Hold You

 

 

2009/09/27

N-04A (夢のない眠り) / Mobile for Pics-2


写真は、現在進行中の新しい写真シリーズ『N-04A -夢のない眠り-』からです。

以前、このブログでご紹介した写真シリーズ『ウジェーヌ・アジェへの手紙 / Lettre à Atget 』はすでに完了し、『雅楽山禮図』については、もうしばらく、あと1,2年はかかるかな・・・粘りたいと思います。
ところで『N-04A -夢のない眠り-』シリーズ、ちょっと若々しいしょう? 
ちなみに“N-04A”とは、僕が使用している携帯電話の機種名のことです。

写真、そのシリーズについて、「どんな意図で?」とか、「テーマは?」「コンセプトは?」って、「見てわからないのですか?」といつも思うのですが、もちろん、書こうと思えばいくらでも書けるし、言葉による解説は簡単なことです。人は、言葉によって写真を分った気になり、納得して、自己投影したり、反発したり、写真にとって一等大切な、言葉では描けない“ナニカ”について、自身の感受性をフル稼働して、そこから生まれる、自身の内側で見えてくる歓びを、気安く手放してしまうところがあります。
僕は、それぞれの写真シリーズについて“直接的”に語ること、書くことを避けてきましたが、ただタイトルには、ヒント、もしくはサインのようなものを付与してきました。
今回のシリーズ『N-04A -夢のない眠り-』。写真が若返った感じがするのは、たぶん僕の“生活”が、変わったからなんでしょう。・・・これって素敵なことですよね? 写真を撮ること、「生」を継続することは、たえざる挑戦であり、実験なので、ひたすら似たような写真ばかりを撮り続けるコンセプチャル系の作家は、感性的には、非常に愚鈍、生きてはいないんじゃないかなぁ。
僕たちは皆、永遠の旅人、ナイキのキヤッチじゃないけれど、You can do it if you try... だな。


2009/09/20

『私の額装』中村明博について / Akihiro Nakamura

額装デイレクターである中村明博については、以前、このブログでも触れましたが、最近、彼は『私の額装』というタイトルにより、彼自身の額装についての考えを述べました。興味のある方はどうぞこちらをクリックしてみてください。
“額装”をデイレクションするという仕事、その営みについて、ここまで指向・思考した人は、(大袈裟ですが、)たぶんあまり居ない事でしょう。

たとえば、西洋の世界、西洋美術の歴史において、額装についてのアイデアは、所詮は作品の見栄をよくするためだけの「装飾」の域を出れなかったのではないでしょうか。作品を囲う、作品のための「衣装」という卑小な価値しか見出してこなかったように思われます。
むろん、『私の額装』における中村明博の文章は、額装という非常にマイナーな分野について書かれていますから、興味のない方、もしくはアートと聞いて思わず後ずさりしてしまうような方にとっては眠くなるような文章でしょう。
ですが、アート、「芸術」というのは、別に恐れるほど難解な怪物では無く、かなり「面白い!(ゾクゾク…)」するジャンルのひとつです。
本来、彼の文章を読むより、直に彼の仕事、額装に触れていただくのが一番良いのですが…。やがてそんな機会もあるかと思います。
写真家である僕が感じる彼、中村明博の仕事は美しい、たいへん見事なものです。透明な美感を共有、感受しうる貴重な方だと直覚しています。


(p.s.)
額装デイレクターとして、彼は「当たり前のこと」を書いたまでだ、と言えばまさしくそうですが、「当たり前のこと」とは、案外、人間存在の根底は討ち貫くほどの威力があります。実際、人はこれを真っ直ぐに「見る」ことを厭い、無意識裡に避けて通ろうとします。ですが「当たり前のこと」とは、非常に静かですが、善悪を超えた、パワフルな覚醒体験を呼び込もうとするものなのです。

 

 

2009/09/13

コマーシャル・ワークの余白にて / Commercial Works



photo by Takeshi Kainuma

警備員の仕事の狭間(?)に、商業写真、つまり依頼仕事をこなし、僕の心はイイ感じに壊れてきているのですが、もちろん従来どおりプライベート写真もパチリパチリとやっており、こちらの方は、前にも書きましたが、携帯電話のカメラ機能をもっぱら使用していて、「なんでまた携帯写真で?」と感じられる方々もいらっしゃると思いますが、この由は至極明快、一眼カメラを依頼仕事以外に持ち歩く時間、余裕が、今の僕のライフスタイルには無い、ってことです。だから以前「携帯電話写真に凝ってます!」と書きましたが、「やむべからず必要」が、現在僕が身を置いている状況が、こういた撮影スタイルを誕生させたのでしょう。

あまり自分の様式に縛られない方が良い。これは長年ひとつの事を続けてゆくと、どうしても陥りがちな「自己模倣」を回避するための技芸でありますが、先人が教えてくれた知恵、教訓です・・・。でも、今の状態、ちょっぴりキツイです。

2009/09/05

街の案山子、都会のヨーギたち / guardman's report


8.24.2009

昨日今日と、二日かけて終わらせるはずの現場が、そこの監督さんの配慮か、はたまた機転か、昨日一日で終ってしまい、当然、すさまじい、タフな勤務時間となりましたが、故、今日は目出度くお休みということで、そんじゃあーちょいとこの警備業務というか、そこで働く人々について、この不思議な領域で感じ、考えた事々について書きますか・・・。(久しぶりだな~文章書くの。)

え、それでアップした写真は勤務中の僕なんですが、新しい仕事にも少しずつ慣れ、車や歩行者が途切れた際などに、おもむろにポケットから携帯電話を取り出しサッサッサ~と撮影(じつは最近、携帯電話による撮影に凝ってます!)。まあ、そんな心の余裕もうまれたのでした。

んー、でも、まだ文章を書くのがしんどい。・・・この辺で。

「ガードマンズ・レポート」でした。

2009/08/08

星野道夫、奇跡のルート / Michio Hoshino

在米中、ある月刊誌に「TAKESHI KAINUMA from N.Y. 小夜曲」というタイトルでしばらくフォトエッセイを連載していたのですが、今回は趣向を変え、そこに書いた星野道夫についての拙文を再掲載したいと思います。

今月は、ごく最近気になっている1人の写真家について書きます。その写真家の名を、星野道夫と言います。
1996年8月、今から5年ほど前に、ロシアのクリル湖畔の小屋で就寝中のところをヒグマに襲われ、逝去した動物写真家として有名な彼のことは、皆さんよくご存知かもしれません。たしかに、星野道夫の名前はよく眼にするし、その写真については度々見る機会があります。けれど当時の私は、動物写真家たちの写真など軽蔑していたので、彼の写真については「ただのカレンダー写真じゃないか」と、さほど魅了されることもなく、「被写体に頼りすぎている内はまだ“写真家”とは呼べないのだ」と、星野道夫の写真は私の興味の圏外にありました。
ところが先日、イラストレーターであるカミさんが絵の資料のためにと買ってきた彼の写真集を漠然と見ていたら、私もここ1年あまり近所の犬ばかり撮影していたせいか、彼の写真をとても身近に感じることができたのです。かつて見落としていた、見過ごしていた「なにか」が、どさっと意識の中心に飛び込んで来て、謎が解けたというか、はじめて、星野道夫の仕事の意図といいますか、その数多の写真の連なりに、遅ればせながら「ガツン!」とやられてしまったわけです。
それで早速、『旅をする木』という彼のエッセイ集を紀伊国屋ニューヨーク支店にて購入し、精読、彼の人柄、その輪郭に触れ、今では「参りました!」という気分です。
何はともあれ、星野道夫という人物は“ただ者”ではなかったのですね。「そんなことは百も承知さ」と皆さんに笑われてしまうかもしれない。ですから、いま、ここには、皆さんがまだ気づかれてはいないだろう事を書きます。
それは、星野道夫の“死”についてですが、ニュースではこれを「事故死」として扱い、以後、思考停止しています。でも実際は、そんな単純に片付けられる類の死ではないですよね。この死について、彼の作品、仕事、彼という存在そのものを真摯に、また精密に追い駆けてゆけば、星野道夫の死が、実はサクリファイス、供儀ではなかったかと、ふっと視える瞬間があります。
異様に聞こえるかもしれませんが、あの日、クリル湖畔で、星野道夫に起こった出来事は、表面的には事故死なんですが、そういった演出法による“秘密の供儀”だったんじゃないのかと私には映るのです。(藤原新也が何かの記事に書いた彼の死に対する“読み”はジェラシーですね。)
たぶん、現代の、高度なテクノロジー社会の内側では非常に稀な、ひとつの神秘的な出来事が、あの日、クリル湖畔で起こった、彼の身に降りかかったのだ、と。
「君ノ務メハ十分デアル」と、その“声”は、一体どこから? 天から? 自然神、ワタリガラスから・・・。
故、星野道夫を襲ったヒグマとは「使者」にあたります。もちろん、そのヒグマの聖なる暴力に対する彼の叫び声は肉体器官による反応に過ぎず、精神からのものではありません。
太古の心をもってしか理解できない出来事が、あの日、私たちの記憶の一番深い層にもある、懐かしい、ひどく秘境的な出来事が、クリル湖畔で起こったのではないでしょうか。

ということを、かつて僕は書きましたが、もうすこし噛み砕くなら、星野道夫は、唯一、あのアイヌ民族が指差した処、カムイの国、「熊たちの世界」へ入ることが許された人間ではなかったか。たぶん、彼は、この世の人間の世界、営みより、野生の、僕たちが近づくことはできても、決して交じり合うことのできぬ、越境することの許されていない<向こう側>へ、大自然の生命圏、動植物らが無心に暮らす場、白銀の熊たちの聖地へと、誰よりも強烈に魅了され過ぎたゆえ、超えようとしたのではなかったか? 
生活者としての彼は、結婚し、子供に恵まれ、人間の世界にとどまることを良しとしていたが、信じがたいほど多くの神秘的な光景、無垢で、無駄のない、美しいシーンを見てきてしまった彼の無法の意思は、すでに収まりがつかない処まで来ていたのではないだろうか・・・。そして遂に入る事が許された・・・。僕はこんな風に感じる。
もちろんこんな考えは、「星野道夫を伝説化しようとしている」と思う方々もいるだろう。が、彼が伝説、神話化されたとしても、実は誰も困りはしない。事実というものは、過酷で、暢気な言葉、流行キャッチや甘ったるい表現、感傷など入り込む余地はないのだから。
そして、最後に、これはあえて書きますが、星野道夫という人は、登山家ラインホルト・メスナーのような超人的な記録を残したわけでもなく、写真家として革新的な仕事をした人でもないだろう。ただただアラスカに魅せられ、そこに在住するために、「something great」に感応するために写真を撮り、そこで考え、感じたことを綴り、徹頭徹尾、個人的なこだわりのみを生きた、普通の、ある種極端に無骨、正直で、物静かな人だったんじゃないかと僕には映る。日本人として生まれ育ちながらも、一等身近であるはずの日本人に対して、他人に対し、まったく思いやりを持てなかった人・・・。けれど、星野道夫はひとり黙々と<奇跡のルート>を辿り、向こう側へ入る事が許された・・・。

--以上です。


Yuta by Takeshi Kainuma

 

 

2009/08/02

警備員デヴュー / oh my god !

先月は、ちょいと様々な事あり、現在僕は警備員の仕事に就いています。
警備員といっても、皆さんはご存じないかと思いますが、いろいろな業務内容があって、僕がいま携わっているのは「二号業務」と呼ばれる「交通誘導警備、または雑踏警備」という、平たく言えば、あの、お馴染みの、車やバイクを運転なさる方ならちょくちょく見かけるだろう路面工事、もしくは工事現場の出入り口、駐車場付きスーパー、百貨店等の車両の入り口にて赤い誘導灯を回し、制服姿で、人や車をつまらなそうに誘導している、真っ黒に陽に焼けた顔の方々、「まさか、おれが!」と当人が一番戸惑っていますが、彼らの仲間入りをしたのでした。
「警備員」という職業について、アスファルト上で、ぎらぎら照りつける、まるでアスファルト砂漠のような極限猛暑の内にて、ひたすら一箇所に釘付けにされた状態で立ち続ける、まあ、片側交互通行のような絶えず無線でやりとりする必要のある現場状況ならいざ知らず、とりあえず4時間立ち続ける、1時間休憩(昼食)、そしてさらに4時間・・・というニンゲンのこんな仕事について、考えさせられる、考えた事は多義に及ぶのですが、なんせ、まだペイペイの身、現在心身共に疲労のレッドラインを迷走中、なにを書いてしまうやら(ほら、書いてはいけないこともあるんで)要注意、今回は簡単に、至極現実的私事の近況報告はさせてもらいました。oh my god !

p.s. 僕はほとんどニュースというものを見ないのですが、本日八王子方面(他の地は知らぬ)、ここ裏高尾はもの凄い雨です。ずうっと、雨がつづいている。


2009/07/24

MIHO MUSEUM について / Mihoko Koyama

まだニューヨーク生活していた頃、懇意にしていた画家の友人の妹分が、或るとき、分厚い美術館のカタログを僕に見せてくれた。その図録は、日本から送られてきたもので、タイトルは『MIHO MUSEUM』、2巻にわたる豪華な代物で、その内容に触れ、僕はかなり仰天させられました。
カタログには、古今東西の名品、作品群が、これでもか!というぐらい、独特な緊張感をもって網羅され、そのトーンは、熾烈であるとともに、厳密な“眼”の存在を予感させ、こういった美術館カタログと出会うことは非常に稀なこと、「ようやく、日本においても、これほどまで高水準の美術館が誕生したのだ」と、僕は思わず感動してしまい、すぐさまその妹分に「これください!」と叫んでいた。最近、このブログで、美にまつわる話が続いたので、これも流れかなと思い、この『MIHO MUSEUM』という美術館について少し書きます。

この美術館は、滋賀県甲賀、信楽町の山奥にあります。設計者は20世紀のアメリカを代表する(らしい)中国系アメリカ人建築家I.M.ペイ氏、宗教団体「神慈秀明会」の会主・小山美秀子(こやま みほこ、1910年5月15日 - 2003年11月29日)のコレクションを展示するために、1997年11月に開館したようです。つまり、日本人の大好きな新興宗教団体が経営する美術館ということになります。ちょっと胡散臭い背景ですが、今は、そんな事はどうでもよく、ただこの美術館、小山美秀子の眼力、その眼の利かせ方は瞠目に値する、大変なものだと、先に明言しておきます。
長い間、僕もそれなりに美術館巡りはしてきましたが、ほとんどの美術館、世界のどの美術館をのぞいても、良いモノとつまらぬモノが混在する場であり、「あっ!」と驚愕作品の横に平気でどうでもいいような代物が(歴史的には価値があるのでしょうが)ポケーと無造作に陳列されている、これが現状で、鑑賞者としては、その度に肩透かしをくらったような、騙された気持ちになるものなのです。なぜなら、鑑賞中は全感覚がフル稼働だから、「つまらぬ作品は倉庫にでも仕舞っておけよ!」だし、「目を利かせることが館長のシゴトだろ、一体誰がチョイスしやがったんだ」なーんて、わざわざ美術館まで足を運ぶというこちら側の労力、意識について、すでに無感覚になっている美術館サイドの高慢な態度、プロ意識の欠如・・・、それで僕はあまり特別な展示物がない限り、ほとんど美術館には足を向けなくなりました。
数年前、僕は一度だけ、この『MIHO MUSEUM』を訪ねてました。
アクセスがすこしやっかいなのですが、たいへん素敵な所でしたよ。
機会あれば、再び訪れてみたい。
ただし、I.M.ペイ氏の建築はミスチョイスだったと思いますが・・・。(たぶん小山美秀子の指名ではない。であるなら、彼女にとって器はなんでも良かったんでしょうか。たぶん、娘さんの知恵、客寄せです)
『MIHO MUSEUM』は、至極、粒ぞろいの作品群がならび、普段あまり使用していない集中力を引き出してくれます。高次元鑑賞することの出来る、稀有な場となっています。
小山美秀子の、国境に捉われない、文化文明の色彩、特色、様式という表面的な事々に惑わされない審美眼はまったく見事であり、あえて言うなら、超人的であり、その視線はまったく真摯に張り詰めています。彼女には、しばしコレクターが陥るあの感傷の寄り道、作品を自身の感傷の拠り所にすることにより曇らされる眼、心の弱さというものが一切無く、たおやかで、優雅で、厳しく、その選択はほぼ狂いを知らないようです。ゆえ、その姿勢は、逆に“狂気”を孕んでいます。
たとえば、茶器、茶道具にたいする小山の審美眼、これは日本独自の、たいへん高度なまなざしを要求されるものですが、そのコレクションを拝見するに、やはりまったくブレていません。幾つかの平面作品については、「おや?」というものもありますが、それでもこれは全コレクションの一割程度に過ぎません。いずれにせよ、「茶器をめでる」、その隠された、慎み深い姿を前に、厳かに観入し、その内にて遊び、「花」をそっと捕まえるまなざし、特異な精神の動きは、西洋人には不可能だと思いますが、こういった感性を大事に想い、これを保持しようとした民族は、この日本という島国以外に在るのだろうか?否、在っただろうか?話が脱線してますが、僕は、とりあえず日本人なので、これまでのアート史、世界のアートシーンをみるにつけ、ピカソの絵、仕事ほどには、北斎の仕事、肉筆画の凄みがほとんど評価されず、ダ・ヴィンチのようには俵屋宗達の画がまったく認知れていない、この日本が生んだ最大級の天才の仕事が世界ではまったく評価されていない現状が、とても訝しい。
話がまた逸れましたが、あらゆる点において、『MIHO MUSEUM』は個人ミュージアムとしては世界1、2かと思われます。
ただ残念なことに、1点1点の「見せ方」が凡庸、通俗的なので、そこはもっともっとこだわって欲しかった。内館デザインも凡庸であり、それぞれの作品に見合った状況、「フレーム」は作り得ていません。照明、光の当て方、まわし方も甘いような気がする。別に奇抜なことをやれ、個性的たれ、というのではなく、粋を極めて欲しかったのです。それほどまでに、彼女の収集した作品は恐るべき作品、ブツであった、ということです。
「美に触れる」というのは、ある種感覚が開放された状態にあるから、“すべて”視えてしまうわけです。ちょっとした手抜きや優等生的身振りが巨大に感じられてしまうものなのです。
事実、あれほどまで優れたコレクションの数々を一つの場所で一気に鑑賞できるのは、実際、奇跡的なことです。
自然が絶えず美しいのは当たり前。では芸術とは、作品鑑賞とは、“人間”の仕事の美しさに触れるための唯一の機会ではないでしょうか。これは“無限”に触れることでもあり、鑑賞者一人一人の存在の深層、中心に座す“美”に触れることでもあるのです。
しかしながら、『MIHO MUSEUM』とは、神慈秀明会の信者のお布施を湯水のごとく使っての建設であり(たぶん)、眩暈がするような莫大な金をばらまき購入したコレクションの数々であることには違いありません。これについては、ある種複雑な気持ちになりますが、信者の方々は一体どのように感じているのでしょう? たとえば、「皆さんのお布施によってダ・ヴィンチの最後の晩餐を購入することができました」であるなら、きっと皆様は納得、満足することができるのでしょう。が、・・・難しい問題です。小山美秀子のコレクションは、超玄人の眼差しによって厳選され、収集されたものですから、信者の方々はまったくの“個人の眼”、“孤の眼差し”を取り戻し、これに触れるしかありません。彼女が見抜いた「美」とは、そうやって捕まえることしかできないからです。あの世が、さらさら見え隠れするような、あの艶やかな「美」のふくらみは・・・。

もちろん、宗教団体は僕とって無縁の場所ですが、『MIHO MUSEUM』は神慈秀明会という宗教法人がスポンサーであり、信者さんがこつこつとお布施をしてきたゆえの成立・・・が、国立西洋美術館、上野の森美術館、東京都美術館、ジブリ美術館、等々、「そんな器と内容じゃあどうしょうもねえだろ」という本音もあり・・・、難しいです。
本来は、国が、日本人の眼力の特殊性、強い日差しには弱い青い眼、そのような目の質、眼力では見逃してしまうであろう美への眼の利かせ方、妙意妙味を、美術館というカタチにより、それこそルーヴル美術館じゃないけれど、世界を「あ!あ!あ!」と3度ぐらい唸らせるほどの、他国から人々が「日本のあの美術館を見るためだけに来ました」と嘆息させる内容をもった美術館を作らなければと思います。
・・・が、この日本には、“サイコー美術館”は、そもそも必要ないのかもしれません。僕は、たまたま、こっちの世界、美の世界に裸足で踏み込み、魅了され来ましたから、このような文章を書いていますが、名画または名作、優れた作品に触れること、鑑賞すること、もしくは創作することなど、実は本来の人間の最終“目的”ではないのではないか。宗教と芸術、その他、諸々の人間の営みは、すべて、真剣な、余技に過ぎないのではないか。ちょっと誤解を生む、最後に混乱させてしまうような発言ですが、先ほども類することは書きました、宗教や芸術とは、“方便”であり“きっかけ”に過ぎないのではないか、そしてこの生は、夢のまた夢・・・。
最近とみに、そう感じるのです。


すべて消え往く、それは
よし、、。?ここ

ナニガノコルカ・・・




#3 (370×555mm)
photo by Takeshi Kainuma 
 
 
 
 
 

2009/07/22

美の人、坂川栄治 / Eiji Sakagawa

坂川栄治という人を知っていますか?
出版にたずさわっている方なら誰もが「はっ!」ですが、一般的には「む?」かもしれませんね。僕も数年前までは「だれ?」でした。
坂川栄治とは、日本を代表する(って言い方も説得力ありませんが)装丁家の一人、現行スターであります。つまり誰もがすでに彼の手がけた仕事、装丁した本は眼にしているはず。
装丁、ブックデザイン以外にも、彼は写真についての著作『写真生活』(晶文社)や、照明や手紙の有り様についての本、小説なども出しております。アートデイレクターであり、かつては写真ギャラリーを経営し、また映画や絵本の批評文、紀行文、等々と、その感覚の射程はかなり広範囲、多義にわたっています。僕も一度だけ、このブログに掲載しましたが、新井満の『良寛』(世界文化社)にて、ご一緒に仕事をさせていただきました。
坂川さんの事務所は、南麻布の奥まった物静かな場所にあるのですが、知人の紹介でアポを取り付けひとり訪ねていったのは昨年のこと。西洋風の、清楚な、築数十年ぐらい経つ二階建ての一軒家。たぶん、あのあたりは大使館が多いから、かつてどこかの小偉い大使が「日本家屋には住まん!」などと駄々を捏ね、作らせた住居を坂川さんが見つけ、「ここを事務所にしーよ、お」と、その創作の現場にしたんだと思います。それでその室内模様は・・・(ここここを参照)。
室内というのは、ひそか主(あるじ)の趣味というか心模様を、内的な風景というものをあらわしてしまいますが、はじめて、彼の事務所をお邪魔したときの興奮、というか柔らかなショックは今も忘れられない。
壁という壁、一面に写真や版画が飾られている。(ここは写真ギャラリーか?)。長距離列車の座席のようなちいさな待合室には世界中の数多の写真集がずらりその分厚い背表紙を見せている。
アメリカ暮らしを後にし、再び日本で生活をはじめ、ひさしく味わっていなかった匂いや光景が「むん」と僕の五感に侵入し、なんとも言えない至福のひと時を、その事務所内部は演出していたのです。
「いやるなー。いやらしいなー」と僕の半分は不良少年モードに入り、もう片方は、「こういう審美眼をもった人がまだ日本に居るんだ。業界におるんだ!」という、正直、ホットした気持ち、・・・。
坂川栄治とは、正真正銘、美の人ではないのかと、僕は観じる。
美について、これを享受することにおいて、あれほどまで貪欲な人を僕はあまり知らない。
センスがあるとか無いとか、「洒落たご趣味ですね」なんて褒め言葉、そのような形容詞は、美の人にはまったく通用しない。彼は、政治思想とは無縁な古典的アナーキストであり、経済的なバランス感覚を修得したリアリストでもある。
戦国の千利休とは、またベクトルのちがう個性をもった“目利き”の一人ではないかと思う。
現代のような洟垂れカルチャーが横行する時代相上において、うつくしいモノやコトについてあれほどまで貪欲でいられること、商業ベースの待った無し!の仕事を真摯に、軽やかににこなし、“ディレッタント”としても在ることは、至難の技ではないだろうか? いわゆる、お金持ちが堂々と趣味の悪さを爆発させるこの時代に、「審美眼ってナニ?」と、美について日本人が(ついでに現代アーチストまでもが)これほどまで感受力を低下させてしまった時代に。投資目的で絵画を買う?ふざけるんじゃありませんよ。貴方の、まだ見ぬ精神の絶頂のために買ってくださいよ。
もちろん、坂川さんは芸術家ではないから、美のため、芸のために破綻することはないのでしょう。美のために破綻する?芸術家でない者が、美のために破綻するようでは人格的に弱い、脆弱だと僕はかんがえる。田中一光、白洲正子亡き後、風雅なる人、坂川さんはそんなトーンがよく似合う人だ。では、彼の孤独はどこにあるのか?熊のプーさんのような外貌で、他人を思い切り油断させつつ、そのちいさな眼の奥は、いつも煌々と野生の輝きを放っている。なぜ、彼はあれほどまで無邪気に、スキップしながら「横断」しようとするのか?
その秘密は、たぶん彼が書いた私小説『遠別少年』の行間に散りばめられていることだろう。僕はまだ読んでませんが・・・。たぶんそこには、美とは、汲み取る技術であり、やさしさであり、ニンゲンが、心静めることによって生まれる精神の妙法、自我(エゴ)、自意識を少々遠慮することにより現れる謙譲の舞台、その舞台上での開放の儀、不変エクスタシーの予感ではないのかと、爽やかに告げられていることでしょう。

「美即我・(唯我独尊)」

坂川さんは誰よりもそのことをうまく知悉しているだけなのかもしれません。


酒に注いだ水のように
寄り添うて一つに溶けた我と汝
汝に触れるもの悉くまた我にも触れる
境目をなくした我と汝


ハッラージ (西暦922年没)
井筒俊彦『イスラーム思想史』(中公文庫、1991年)より
 
 
 
 

2009/07/20

額装ディレクターの誕生 / Akihiro Nakamura

絵画にとっての「額装」、その由来というか来歴について、僕はあまり定かではありませんが、「額職人」という職業が歴史上初めて登場した国は、たぶんフランスかイタリア辺りだったのでしょうか。

写真という表現媒体が、印刷物や個人宅から離れ、アートギャラリーや美術館に展示されるようになったのは前世紀、1950~60年代からだと思います。
が、当時の写真愛好家または関係者が、1枚の写真がオークションにかけられ1千万円近くの高値で落札される時代が来るとは夢にも思わなかったことでしょう。
写真の価値をいかに高めるか?
これは写真家サイドの発想ではなく、当時のアート・デイーラーやギャラリスト、美術関係者たちのアイデア、手法の功績でしょう。1点ものの絵画、数点ものの版画(版が駄目になるまで)、何枚でも複製可能な写真・・・、では写真プリントの価値を高めるためにはどんな夢を付与する必要があろうか?
版画のエデイション機能を模倣する。
オリジナルプリントと命名し、「写真家みずからが焼いた写真」と「プリンター(ラボ)が焼いた写真」との差別化を図り、さらに「いや、素材は写真、印画紙だけれど、現代美術として扱う」・・・。
これらは、商売上の工夫であり、言わば、いかがわしいトリックでもありますが、写真家の仕事を「真摯に見ていただきたい」であり、「写真家の仕事、作品も、絵描きや版画家に劣らず、注目に値するもの」を社会化、一般化せんとした努力の賜物かもしれません。

写真が、印刷物や個人宅から独立し、ギャラリーや美術館に展示されるようになり、これまで、様々な写真の見せ方、展示法が模索されてきました。特に1960~70年代は、写真を裸のままピン止めだけするものや、大判のプリント、絵画でも版画でもない写真専用のフレームの研究、シンプルで機能的、直射日光や紫外線をきらう写真の保護を十分かんがえたフレーム、等々・・・。
では、「現代写真」の額装についての思考・嗜好、その動向は?
特に名画と呼ばれている絵画作品の装飾的な額装、その意匠から逃れるべく、アート否定の身振りをさりげなく主張しようとするスタイルが主、クールであり、マッティングやフレームを拒絶し、写真をそのまま「アクリル密着」するだけというシンプルなものが主です。が、これは単に1960~70年代のピン止め写真のバージョンアップ、最新技術に寄り添った振る舞いに過ぎません。

本来「ただ写真を見ればよい。作品を味わえばよい」だけですが、どうもこれが難しい。
ですから、写真の額縁とは、ある一人の鑑賞者へ向け、一枚の写真を見つめてもらうための、ある種の視覚体験に臨んでいただく為の舞台装置に過ぎません。故、慎重に、丁寧に、額装者はこれに気を配る必要があります。

マルセル・デュシャンやヨーゼフ・ボイスの仕事は、見る側に様々の言葉と思考を促す、誘発する類いの作品なので、美術批評家などに愛されますが、絵画でも版画でも写真でも、「美は人を沈黙させる」という言葉を、時代はどこかに置き忘れてしまったようです。
美術批評家、美について書く、アートについて所見を述べるとは、本来、誰よりも正確に、その作品に触れ、言葉もしくは思考の臨界点へと赴き、そこで強烈な沈黙を強いられ、さらにその不可思議な沈黙に耐えつつも、あえて語ろうとする知覚のスペシャリスト、すさまじい耐力、精神の持ち主、もしくは愛の所有者だと思います。

最近、僕はある「額装ディレクター」との知遇を得ました。
彼は額職人ではありませんが、写真、絵画、版画などの作品を手にし、彼の全感覚、直覚によってその作品を理解し、あの不可思議な沈黙を守りつつも、作品が希求したフレーム、さらに言うなら作品にとって必要な「状況」をデレクションするという高度な技を生まれつき所有している方です。

下記の写真は、その1点ですが、この複写、スタジオではなく自宅にて簡単に撮影されたものなので、現物、額装のうつくしさ、重量感、等々がまるで伝えられておりません。
 (中村氏、大変申し訳ない。)



写真:海沼武史
photo by Takeshi Kainuma
額装ディレクター:中村明博
frame director by Akihiro Nakamura

額サイズ:539型 780x609インチ
・パウダーカラー 3mmマット ブック式
・調湿紙
・無反射ガラス、等々

2009/07/07

写真家・清野賀子の死 / Yoshiko Seino


写真:清野賀子
photo by Yoshiko Seino



先日、知人が画廊をひらいたという案内状をいただき、茅場町まで足をのばした。
その際、その知人から写真家・清野賀子(せいのよしこ)が自殺したことを知らされた。
ぼくは、清野さんとは一度も面識なく、たんに数年前に彼女のファースト写真集『THE SIGN OF LIFE』を六本木の書店にて見かけただけという、緩い、一方的な関係だったが、「・・・ドイツの新しい風景写真の流れ、影響を受けている。でも、なかなか誠実な仕事、美しい中性的な人だな」という感想だけは持っていた。
だが、同じ職に就く者にとって他人の仕事などはしょせん人事で、「さあ、この後、どこへ往くのさ?」と、すでに彼女が赴いた意識の場所、<風景>を見てきた自分にとっては、彼女の仕事はさほど斬新なものではなく、「これからが大変なのさ」と、ただただ先輩面した想いだけが不遜にもぼくの中から生まれて来ていた。
新しく画廊のオーナーとなった知人は、清野賀子さんとは「ウツ友達だったの」と漏らした。「今まであんな泣いたことは無かったよ」と続けた。
ぼくは、なぜかその時、まったく面識の無い清野賀子をとても身近に感じ、その知人に対してかなり饒舌になってしまった。
それで思わず、画廊の棚にそっと、さりげなく置かれた清野賀子の写真集『THE SIGN OF LIFE』を手にしていた。なにかを確かめようと、もう一度、眼を通していた。

ひとりの写真家が自殺した理由を、他の写真家が問うことは無意味なこと、言葉なしの挨拶を交わすこと、送ることしか許されていないだろう。
そして、写真集『THE SIGN OF LIFE』が残された。
直訳すれば、「命の徴(しるし)」。
彼女ならたぶんこう呟くかも知れない。
「これが、わたしの見て来た風景、光景・・・わたしが求めてきた。ようやくここまで来て、来ル事ガデキテ、見ツケタノサ、コレガ、“命の徴”ナンダ」と。
清野さんが赴いた場所、たどり着いた所は、明るくも、暗くもなかった。そして、楽しくもなければ、悲しみもなかったはず。しかしそんな事態に耐え切れずに、彼女はその風景に言葉を紡ぎ、物語を纏わせることもできただろう。写真家が、特に男の写真家がふっとやらかすあの「懐かしい」という感情を誘発させる視点へと、情景へと逃げ込むことも容易かったと思う。が、彼女の誠実さ、真摯が、これを許さなかった。
まるで、絶筆となったゴッホの最期の作品「カラスのいる麦畑」のようなトーンを秘めた<風景>の場所、意識の縁にまで、彼女はとつとつと赴き、粋がって「サイン・オブ・ライフ・・・」などと口ずさみ、(かっこ良すぎるんだね)、「ほら、存在についての写真集、ね」と世に問うてみたが、さほど話題にならず、その数年後、みずから果てた。
いや、厳密に言えば、2008年に「a good day, good time」というタイトルで微妙にその位相を変えようとする写真展を開いたが、たぶん、こういった延命法、もしくは情感がはしゃぎだそうとする写真は許せなかったのだろう。彼女にとって「リアル」ではなかったのかも知れない。ただただ生きようとする、見極めようとする彼女にとっては、自身の存在を放れるほどの光景ではなかったのか。
やがて清野賀子は「写真家として死ぬ」ことだけを、ひとり静かに選んでいた。

清野賀子さん、ご冥福を祈る。

 

 

2009/06/01

プロモーションビデオ / new IDENTITY


床絵美 CD 『ウポポ』より
from "UPOPO" Toko Emi-solo CD



床絵美+千葉伸彦 CD 『ハンター』より
from "HUNTER" Toko Emi and Nobuhiko Chiba-duo CD



千葉伸彦 CD 『トンコリ』より
from "TONKORI" Nobuhiko Chiba-solo CD
 
 
 

2009/05/20

モダン畑リビング / Blow

昨年の11月ごろ、近所に住んでおられるH夫妻から「土地、ただで借りられたんだけど、畑、一緒にやらない?」と誘われて、カミさんとぼくは「ぜひぜひ!」と。
のち、5~6年ほど放置されていた草ボーボーの、いや、篠竹と葛のツルのやりたい放題、他の植物をよせつけぬほど絡みついた、なんとなく投げやり、つまり種類のとぼしい植生のジャングル化した500坪ほどの空き地を、畑として、環境整備、開墾を、下倉夫妻も誘い、始めたのでした。
で、そういった作業最中に、視えて来た事、感じてしまった事々はたくさんあって、紐解けた事、「ああー」と、今だ言葉にならない諸々の知覚内容についてはまた次の機会に書くとして、我が家の食卓は、その畑で収穫したサンチェと小松菜、春菊、ルッコラばかり、いただき過ぎて、「ウップ!」って気分です。でも、ありがたやありがたや・・・。
それでぼくはひそか「この畑では虫一匹たりとも殺してはならぬ」という声が、「この畑には、種(または苗)以外の他所からのブツブツ(まあ化学肥料とか石灰とかその他諸々ね)は一切進入禁止!ぜ~んぶ此処の生命、イノチによってまかなうのだっ!」なんて、百姓のプロが聞いたら失笑されそうな感覚が、内部で破裂しちまったんもんだから、ぼくはスパイのようにその「倫理(唄)」に従うことにしている。なぜなら、別にノルマ、どこかに出荷する義務も責任も背負ってないわけだし、畑仕事とは、はっきり申し上げて、大人の「遊び」ですから。しかしながら「遊び」によってしか、途中経過、過程をおおいに楽しめない、なにやらニンゲンにとっての普遍的重大事を修得できはしない、学べないといいますか、もし「収穫」を目的にしてしまえば、その執着イメージが事を見失わせる、そう感じたからなのです。
もちろん、汗水流せば誰もがそこでの「収穫」を願い、「結果」によって満足感を得ようとします。でも、これなんでしょうかね? こういった情動は、本当にぼくたちをあの確たる「シアワセ」の王国に導いてくれるんですかね。なにかを観察したり、感じているそのときの方が、いわゆるオトナな満足感なんてものはないけれど、ゾクゾクしちゃうもんじゃーないのかな。「ああ、天道虫ってみょうな名前をつけられた、食べたら不味そうな生命が葉っぱの上でじ~っとしているさあ」とか、「おお、ようやく出てきた敬三さんからいただいた白花豆の若葉に恐竜のような風情をもった小さな虫がびっしり付いてるじゃーあ~りませんか」なんて、自分が蒔いてしまった「種」だからこそ、その植物の成長に最後まで、できうるかぎり厳かにかかわろうとするものだし、見守って、「かわいいやつ」だなんて言ったりして、そんな気分の時だよね、あの「イノチ」が視えて来る瞬間ってさ。単なる「観察」でしかなかったものが、いきなり自身がニンゲンであることを超え、「一体」(一即多)となってしまう瞬間が・・・。



またまた動画をアップしちゃいます。
楽曲は、昨年、床絵美さんとのユニット、リウカカント(Riwkakant)の2ndの「ダブルファンタジー」を制作中に、ちょいと気分転換に仕上げた「Blow」という作品(一部)です。
唄声は、タイのモスクから響いてきたもの。

2009/05/17

レクイエム / REQUIEM


all by Takeshi Kainuma

行きつけの自家焙煎珈琲のお店「ふじだな」で顔なじみのIさんから、あるとき話の流れで昔のカセットテープをCD-Rに焼き付けて!という事となり、ぼくはカセットデッキというものを持っていない由をお伝えすると、「借りてくるよ」とIさん、それで2~3日、我が家にカセットデッキが居候しており、彼の愛聴テープ、ばりばりの韓国歌謡ポップをちょいとPC上の音楽ソフト「キューベイ巣」でコントロールし、すぐさまCD化。
で、なんとなし、気分転換に、せっかくデッキがここにあるのだから、昔ぼくが作った音楽テープを幾つか聴いていたら、ああ、懐かしくなり、ぱっぱっと動画をこしらえてしまいました。

音楽は、1985年に作られた「レクイエム」という作品です。

2009/05/14

Michiとのあるき / walk on the unknown


彼女の掟にしたがうならば
花はここ
罪はあちらへ河はどこ?
むすうの屍がうかぶう河は?
手入れのゆき届いたドレスはあちらねミチはここ

 まだ 触れたことの無い月の花弁をまさぐって・・・
彼女の掟にしたがうならば
唄はここに
指揮はあちらねチェロはどこ?
おおくの棺を仕舞いこんだ夢は?
手入れのゆき届いた意味はあちらねミチはここ

 カザルスの
 無伴奏チェロをききながら
 長くのびたバッハの影を宿にして
 もうしばらくの間
 ここにこうして居ようかな
 炊事洗濯あとにして
 もうしばらく
 ここで休んでいようかな

指揮者不在の初春の朝へ
夢やドレスは打っ棄って
チェロの小舟に身をまかせ
花の唄でもききながら
ミチとのあるき
Michiとのあるき


(May/06/01)

2009/05/10

美 / the beauty


 photo by Takeshi Kainuma 


 小林秀雄 『私の人生観』(角川文庫)より

なぜ、美は、現実の思想であってはならないのか。
だが、通念というものは、あらゆる疑問を封ずる力を持つものです。
美という言葉が、何かしら古風な子供らしい響きを伝えるのは、誰のした仕業でもない。空想とか夢想とかいう考えを伴わずに、美という言葉を発言するのは容易ではない。誰のせいでもない、通念の力である。考えの落ちてゆく往くところはひとつです。夢もまた人生には必要ではないか、と。しかし、夢とは、覚めてみたればこそ夢なのではないか。日常の通念の世界でわれに還るからこそ、あれは美しい夢だったというのではないか。そして、通念とは万人の夢ではないでしょうか。
美しい自然を眺めてまるで絵のようだと言う、美しい絵を見てまるで本当のようだと言います。これは、私たちのごく普通な感嘆の言葉であるが、私たちは、われ知らずたいへん大事なことを言っているようだ。要するに、美は夢ではないと言っているのであります。

この文章は、小林秀雄が昭和23年秋「新大阪新聞」主催の講演会で話したものに後日手を加えたものだそうですが、ぼくが得て勝手に抜粋し、そのまま引用してみても、「なんのことやら?」でしょうから、下記に、ちょいと現代語訳(?)というか、ぼくの独断による自由訳、変換引用文を掲載させていただきます。(すいません、小林翁。)

たとえば、クロード・モネの晩年の仕事に「睡蓮の連作」というものがありますが、なぜ彼は、晩年、あれほどまで執拗に睡蓮ばかりを描き続けたのか?
こういった疑問こそが、絵が一つの「精神」として皆さんに語りかけて来る糸口なのであり、絵はそういう糸口を通じて、皆さんに、あなた方はまだ一ぺんも睡蓮を、通念的に見てきただけで、「自然の本体」というものを、ほんとうには見たことないのだと断言しているのです。
私は美学という一種の夢、屁理屈を語っているのではない。皆さんの目の前にある絵、「作品」は、実際には皆さんの知覚の根本的革命を迫っているのです。
しかし通念の力によって、知覚の拡大など不可能である、眼には見えるものしか見えはせぬ、知覚の深化拡大など思いもよらぬ、と人は言うかもしれない。だが、議論は止めよう。実際には、この不可能事を可能にしたとしか考えられぬ人間がいるのです。それが優れた芸術家たちです。彼らの仕事、作品とは、通念という夢から覚めたひとつの「現実」なのです。
そして芸術家とは、すべての人間に備わる、あの通念の果て、私たちひとりひとりに内在してある「美」の領地に住む「もうひとりの私自身」の姿でもあるのです。

小林秀雄の著作は、20代の頃、よく読んだものです。最近、当ブログにランボウの手紙を紹介しようと、久しぶりに、約20年ぶりぐらいにふらっと覗いてみたら、なんだかとっても素敵な文章ばかりが散りばめてあったのでついつい紹介しちゃいました。

小林秀雄、読んでみてください。
写真論として読むこともできるし、ちょっと大袈裟ですが、「生きる」という事の王道が見えてくると思います。

 

 

2009/05/07

風に吹かれて / Blowin' In The Wind

昨日、たまたまヤフー・ジャパンのトピックスに<米ベテラン歌手ボブ・ディランの最新アルバムが、今週の英アルバムチャートで初登場1位を飾った。ディランが同チャートで1位になるのは約40年ぶり。今回1位となったのは33枚目のスタジオアルバム「Together Through Life(原題)」>という記事を見かけ、思わず「ほー!」と嬉しくなり、「お!全英チャートで1位になるということは、すくなくとも20代30代のディランを知らない若人たちにも彼の歌が届いた、響いたっつーことではないかっ!」などと、早速iTunessストアを立ち上げ、「試聴、試聴・・・」。
だが、むかし(?)のディランを聴いてきたぼくの耳に、彼のニューアルバムはさほど魅力のあるものとして響いてはこなかった。
「衰退したなあ」というのが、正直な感想だった。

ボブ・ディラン(Bob Dylan, 1941年5月24日 - )、アメリカのシンガーソングライター。
彼の最盛期は、最盛期なんて言葉はちょっと失礼な言い方だけれど、ぼくは彼の60年~70年代の歌に「やられてしまった」人間のひとりで、これはもう30年以上前のお話ですが、当時、ぼくはディランとルー・リードにもろに影響された歌をつくり歌っていました。なんだか懐かしさのあまり、今日はしとしと雨の降る湿っぽい一日でしたが、むかし聴いたディランの歌をネット上でさらさら聴いていました。
A Hard Rain's A-Gonna Fall
Mr. Tambourine Man
Like A Rolling Stone
「All Along The Watchtower」
Hurricane
Forever Young
ボブ・ディランのHP、ここに飛べば彼のほとんどの歌を耳にすることができます。
音楽が好き、という方々、または音楽ツウおよび音楽にうるさいと自負している年若い方々には、ぜひ聴いていただきたいものです。
XジャパンだビーズだミスチルだドラゴンアッシュだJポップだとか、ふーん、そんなに良いかなあ・・・。

ちなみに、ディランの代表作のひとつに「風に吹かれて / Blowin' In The Wind」という楽曲があります。
こんなことを説明しきゃいけないほど、ぼくは阿呆で、ウヴですが、この歌声は、声の表情、トーンと詩の内容が、彼自身の当時の意識というか「存在の位置」、この三つがぴったりと重なり合い、どこにもウソ偽りがない貴重なテイクなんであります。(最近の流行歌、ロック、ポップ、ジャズ、すべてはほぼ気分ソングであり、能天気、勘違いです。)
ボブ・ディラン、彼は筋金入りの厭世家ですが、その奥底には、途轍もない、苦し紛れの、ぎしぎしとうなる、壊れかけた「希い」が隠しこまれています。 
ラブだ、ピースだ、エコだ、ガンシャ!だなんて、この時代に軽々しく言える奴は、彼の、あの澄んだ、狼のような眼差し、その「視」をモロに受けたら、たぶん失語症に陥るかもしれないね。いや、一度、失語症にもなれば、本物の唄が見える、歌えるようになるのかも知れません。
なぜなら、「歌」とは、本来、言葉の限界点、無力感、厭世観の極点において、産まれるものだからです。

The answer, my friend, is blowin' in the wind,
The answer is blowin' in the wind.



友よ、答えは風の中で揺れている
真実は、風の中で揺れている・・・。

2009/05/06

「写真と紙の出会い」展 / group show


期間:2009年5月18日(月)~29日(金)9:00~17:00 [土日祝 休]
会場:平和紙業株式会社東京本店 ペーパーボイス東京
主催:平和紙業株式会社

 *海沼武史が参加します。

2009/05/03

ウジェーヌ・アジェへの手紙-1 / Lettre à Atget (1)



ウジェーヌ・アジェ(Eugène Atget)とは、20世紀初頭のフランスの(都市)風景写真家です。
そしてもう一人、エドワード・カーティス(Edward S. Curtis)とは、19世紀末アメリカの肖像写真家です。
に独論しますが、まだ200年足らずの「世界の写真史」においてもっとも偉大なフォトグラファーとはこの2人ではないかと、ぼくは密かに確信しています。
2つのピーク点、風景写真ではアジェ、肖像写真ではカーティス。まだ誰もこの2人を超える「仕事」を成していない、写真家は登場していないように思います。
では、彼等の仕事を超える必要があるのかと問われれば、たぶんエドワード・カーティスの仕事、ポートレイトを越える事はほぼ不可能ですが、アジェの仕事に関して言えば、これは詩人アルチュール・ランボウの手紙の中の一節「・・・彼が数多の前代未聞の物事に跳ね飛ばされて、くたばろうとも、他の恐ろしい労働者達が、代わりにやって来るだろう。彼等は、前者が倒れた処から又仕事を始めるだろう」(小林秀雄訳)、可能ではないかと・・・。
もちろん写真に興味のない方々にとっては、馬の目に写真のニンジンですが、幸か不幸か、ぼくはフォトグラファーの道を選び、ずっと歩いて来ていますので、自身の仕事を絶えず計量し、判断をし、その時々に決着をつける必要があります。さらに、先人先達の仕事があったからこそ、こうして此処で撮影することが出来、彼らパイオニアの仕事を昇華し、これに向け挑戦してゆくことが、後続の務め、のちに続く者たちの役割ではないかと思うのです。

今回アップした2点の写真は、昨年末から今年の4月あたりまでに撮影された新しい写真シリーズ『ウジェーヌ・アジェへの手紙 -Lettre à Atget- 』です。


アジェの写真、彼の仕事の凄み、功績とは、パリの古い町並みを撮影したことにあるのではなく、彼の、その特異な<立ち居地>にあります。これを「現実と非在のあわい」と呼んでも構いませんが、そういった場所にすうっと身を置き、延々と撮影を敢行した写真家は今のところアジェ以外には見当たりません。つまり彼の仕事、写真の凄みとは、その不可思議な<幽玄性>にあります。これについては、ドイツの文芸批評家ヴァルター・ベンヤミンは舌足らずにも<アウラ>と名づけましたが、このアジェの立ち居地は、『新たなる凝視』以降の日本の写真家・中平卓馬のそれとは全く似て非なるものです。

エドワード・カーティスの功績とは、北米インデイアンばかりを大量に撮影したことあるのではなく、その肖像写真から匂い立つ「人間の誇り、気高さ」にあります。これはナダールの肖像写真と比較すると明らかに理解できることですが、今だかつて、カーティスほど、<人間の魂の可能性の中心>を、顕在化したフォトグラファーはいません。もちろん、被写体の力(もしくは存在感)による処は大きかったですが、「人間存在、その精神の真摯な姿」が、たったひとりの人間、写真家によってひたすら撮り続けられたという事実は奇跡的な事ではないでしようか。カーティスの写真を見、その眼差しの有り様に触れ、鑑賞者は、自身の「可能性の中心」と対面する瞬間、想起する場を得ることでしょう。その点、ナダールの肖像写真は、西洋中心主義、貴族趣味的であり、ポーズ、虚飾です。いわば西洋絵画における肖像画の延長でしかない。
さらに、1960年以降のダイアン・アーバスのフリークス写真、肖像写真家の仕事は、殊更撮影しなくとも「現実」を見渡せばいくらでも散見している人間の姿形であり、ただただ負の面、安上がりな覗き見趣味的情動を誘発する類の仕事ですから、ぼくはさほど評価する気にはなれません。なぜなら、負への共感とは、自己憐憫であり、自身への誤摩化し、時代への茶化しであり、嘲笑、ぼくたちがすでにフリークス化しているという事実との対峙を曖昧にしてしまうからなのです。love & peaceと叫ばれた「時代」が生んだ、甘ったれた仕事のように見えます。(ただし、アーバスの死後発表された『untitled』は、たいへん優れた、驚異的な“視”です。)

かなり話が脱線しまくりましたが、アジェの仕事、写真とは、写真を続ける者が決して避けては通れぬ手強い関門ではないかと、ぼくは思っています。